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== 経歴 ==
== 経歴 ==
1900年、[[ロンドン]]に医師の子として生まれる。[[ケンブリッジ大学]]で医学を専攻。在学中、[[ノーベル賞]]受賞者の[[フレデリック・ホプキンズ]]との邂逅をきっかけに生化学を志し、発生生化学者の権威となった。1930年代後半より中国における科学発達史に関心を持ち始め、1942年から1945年まで[[介石]]政府の科学顧問として[[重慶]]に滞在した<ref name="independent">{{citation|url=http://www.independent.co.uk/voices/obituaryjoseph-needham-1612984.html|title=OBITUARY:Joseph Needham|date=1995-03-26|publisher=[[インデペンデント|Independent]]}}</ref>。帰国後、[[ジュリアン・ハクスリー]]の推薦で[[国際連合教育科学文化機関]](UNESCO)の創立にかかわり、その自然科学部門を2年間担当した<ref>Goldsmith (1995) pp.89-97</ref>。1948年にケンブリッジ大学[[ゴンヴィル・アンド・キーズ・カレッジ]]に戻り、以後、前人未踏の中国科学史の研究に没頭する。『中国の科学と文明』の最初の巻は1954年に出版された。当初7巻で完結する計画であったが<ref>Goldsmith (1995) p.108</ref>、実際にははるかに巨大になった。ケンブリッジ大学内のニーダム研究所で編纂が続けられ<ref>{{citation|url=http://www.nri.org.uk/index.html|title=Needham Research Institute}}</ref>、1995年の没時までに計16冊が出版され、12冊分はニーダム自身<ref name="independent" />によるもので、没後も出版が続けられた。
1900年、[[ロンドン]]に医師の子として生まれる。[[ケンブリッジ大学]]で医学を専攻。在学中、[[ノーベル賞]]受賞者の[[フレデリック・ホプキンズ]]との邂逅をきっかけに生化学を志し、発生生化学者の権威となった。1930年代後半より中国における科学発達史に関心を持ち始め、1942年から1945年まで[[介石]]政府の科学顧問として[[重慶]]に滞在した<ref name="independent">{{citation|url=http://www.independent.co.uk/voices/obituaryjoseph-needham-1612984.html|title=OBITUARY:Joseph Needham|date=1995-03-26|publisher=[[インデペンデント|Independent]]}}</ref>。帰国後、[[ジュリアン・ハクスリー]]の推薦で[[国際連合教育科学文化機関]](UNESCO)の創立にかかわり、その自然科学部門を2年間担当した<ref>Goldsmith (1995) pp.89-97</ref>。1948年にケンブリッジ大学[[ゴンヴィル・アンド・キーズ・カレッジ]]に戻り、以後、前人未踏の中国科学史の研究に没頭する。『中国の科学と文明』の最初の巻は1954年に出版された。当初7巻で完結する計画であったが<ref>Goldsmith (1995) p.108</ref>、実際にははるかに巨大になった。ケンブリッジ大学内のニーダム研究所で編纂が続けられ<ref>{{citation|url=http://www.nri.org.uk/index.html|title=Needham Research Institute}}</ref>、1995年の没時までに計16冊が出版され、12冊分はニーダム自身<ref name="independent" />によるもので、没後も出版が続けられた。


1965年、ニーダムはケンブリッジ大学[[ゴンヴィル・アンド・キーズ・カレッジ]]の学寮長に選出された。
1965年、ニーダムはケンブリッジ大学[[ゴンヴィル・アンド・キーズ・カレッジ]]の学寮長に選出された。

2020年9月15日 (火) 13:44時点における版

ジョゼフ・ニーダム
生誕 1900年12月9日
イギリスの旗 イギリスロンドン
死没 (1995-03-24) 1995年3月24日(94歳没)
イギリスの旗 イギリスケンブリッジシャー州、ケンブリッジ
職業 科学史家、生化学者
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ノエル・ジョゼフ・テレンス・モンゴメリー・ニーダムNoel Joseph Terence Montgomery Needham, 1900年12月9日 - 1995年3月24日)は、イギリスの生化学者・科学史家。コンパニオンズ・オブ・オーナー勲章勲爵士(CH)、王立協会フェロー(FRS)、イギリス学士院フェロー(FBA)。中国科学史の権威で、1983年11月29日に中国社会科学院より名誉博士号が授与される。中国では李約瑟(Lǐ Yuēsè)という中国名で知られる。

ライフワークであった大著『中国の科学と文明』は中国文明のみならず非ヨーロッパ文明に対する知識人の見方を一変させるほどの衝撃を西洋世界にもたらした[1]

経歴

1900年、ロンドンに医師の子として生まれる。ケンブリッジ大学で医学を専攻。在学中、ノーベル賞受賞者のフレデリック・ホプキンズとの邂逅をきっかけに生化学を志し、発生生化学者の権威となった。1930年代後半より中国における科学発達史に関心を持ち始め、1942年から1945年まで蔣介石政府の科学顧問として重慶に滞在した[2]。帰国後、ジュリアン・ハクスリーの推薦で国際連合教育科学文化機関(UNESCO)の創立にかかわり、その自然科学部門を2年間担当した[3]。1948年にケンブリッジ大学ゴンヴィル・アンド・キーズ・カレッジに戻り、以後、前人未踏の中国科学史の研究に没頭する。『中国の科学と文明』の最初の巻は1954年に出版された。当初7巻で完結する計画であったが[4]、実際にははるかに巨大になった。ケンブリッジ大学内のニーダム研究所で編纂が続けられ[5]、1995年の没時までに計16冊が出版され、12冊分はニーダム自身[2]によるもので、没後も出版が続けられた。

1965年、ニーダムはケンブリッジ大学ゴンヴィル・アンド・キーズ・カレッジの学寮長に選出された。

政治的見解

ニーダムは若いころからキリスト教社会主義者であり、また中国に対する関心は1949年の中華人民共和国成立後も続けられた。ニーダムは1952年に中国政府からの朝鮮戦争の調査依頼を受け入れ[6]北朝鮮と中国で米軍が生物兵器を使ったと証言したことが論争を呼んだ[7]。ニーダムは米国政府によって1970年代までブラックリストに載せられており、2008年にニーダムの伝記を書いたサイモン・ウィンチェスター共産主義に共感を寄せたニーダムを共産主義者が利用したと論評した[8]。1964年には周恩来と会見し[9]、1965年には英中相互理解協会英語版を設立した[9]

受賞歴

著作

  • 『化学的発生学』1931年
  • 『生化学と形態発生』(原著1942年)(『生化学の歴史』木原弘二訳、みすず書房、1978年)
  • 『中国の科学』1945年
  • 『中国の科学と文明』(en:Science and Civilisation in China、原著1945-2004年)
    日本語訳(全11巻、新思索社、1974-1981年/新装版、1991年)、ただしVol.5からVol.7(2004年に刊)は未訳である。
    • 1.「序篇」、砺波護・脇本繁・杉山二郎・田辺勝美訳、1974年 ※ Vol.1 Introductory Orientationsの翻訳
    • 2.「思想史 上」、吉川忠夫・木全徳雄・佐藤保・島尾永康訳、1974年 ※Vol.2 History of Scientific Thoughtを2巻に分けて翻訳
    • 3.「思想史 下」、1976年
    • 4.「数学」、芝原茂・中山茂・吉沢保枝・山田慶児訳、1975年 ※Vol.3 Mathematics and the Sciences of the Heavens and Earthを3巻に分けて翻訳
    • 5.「天の科学」、吉田忠・宮島一彦・中山茂・高柳雄一・橋本敬造・山田慶児訳、1976年
    • 6.「地の科学」、海野一隆・山田慶児・橋本敬造訳、1976年
    • 7.「物理学」、橋本万平・大森実・野矢弘・宮島一彦訳、1977年 ※Vol.4, Part 1 Physics and Physical Technology - Physicsの翻訳
    • 8.「機械工学 上」、中岡哲郎・堀尾尚志・佐藤晴彦・山田潤翻訳、1977年 ※Vol.4, Part 2 Physics and Physical Technology - Mechanical Engineeringを2巻に分けて翻訳
    • 9.「機械工学 下」、1978年
    • 10.「土木工学」、1979年 ※Vol.4, Part 3 Physics and Physical Technology - Civil Engineering and Nauticsを2巻に分けて翻訳
    • 11.「航海技術」、1981年
  • ドロシー・ニーダムとの共編『科学の前哨 第二次大戦下の中国の科学者たち』(原著1948年)(山田慶児・牛山輝代訳、平凡社、1986年)
  • 『文明の滴定 科学技術と中国の社会』(原著1969年)(橋本敬造訳、法政大学出版局、1974年)
  • 『東と西の学者と工匠:中国科学技術史講演集』(上・下、山田慶児訳、河出書房新社、1974-1977年)
  • 魯桂珍との共著『中国のランセット:針灸の歴史と理論』(原著1980年)(橋本敬造・宮下三郎訳、創元社、1989年)
  • 『中国科学の流れ』(牛山輝代訳、思索社、1984年)
  • 中山茂・牛山輝代・松本滋 編『ジョゼフ・ニーダムの世界 名誉道士の生と思想』(日本地域社会研究所、1988年)
  • 『理解の鋳型:東西の思想経験』 (井上英明訳、法政大学出版局、1992年)
  • 牛山輝代編訳『ニーダム・コレクション』(竹内廸也・内藤陽哉・山田慶児訳、ちくま学芸文庫、2009年)

出典

  1. ^ Jacobsen, Stefan Gaarsmand (2013). “Chinese Influences or Images?: Fluctuating Histories of How Enlightenment Europe Read China”. Journal of World History 24 (3): 623–660. doi:10.1353/jwh.2013.0076. ISSN 1527-8050. 
  2. ^ a b OBITUARY:Joseph Needham, Independent, (1995-03-26), http://www.independent.co.uk/voices/obituaryjoseph-needham-1612984.html 
  3. ^ Goldsmith (1995) pp.89-97
  4. ^ Goldsmith (1995) p.108
  5. ^ Needham Research Institute, http://www.nri.org.uk/index.html 
  6. ^ The Passions of Joseph Needham
  7. ^ Goldsmith (1995) p.125
  8. ^ Winchester 2008, p. 212 The incident has been further explored in Shiwei Chen, "History of Three Mobilisations: A Re-examination of the Chinese Biological Warfare Allegations against the United States in the Korean War," Journal of American-East Asian Relations 16.3 (2009): 213–247.
  9. ^ a b Feature: Joseph Needham's wartime China legacy remembered in Britain, 新華網, (2015-09-08), http://news.xinhuanet.com/english/2015-09/08/c_134602317.htm 
  10. ^ "Needham; Joseph (1900 - 1995)". Record (英語). The Royal Society. 2012年3月25日閲覧
  11. ^ "No. 52952". The London Gazette (Supplement) (英語). 12 June 1992. p. 5. 2012年3月25日閲覧

参考文献

関連項目

外部リンク