コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

「在華ソビエト軍事顧問団」の版間の差分

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
削除された内容 追加された内容
編集の要約なし
Cewbot (会話 | 投稿記録)
2行目: 2行目:


==概要==
==概要==
中国革命を目指す[[孫文]]が[[国民革命軍]]の創設と強化のため、隣国[[ソビエト連邦]]から招いたのが始まりである。孫文の死後に跡を継いだ[[介石]]は、革命軍を率いて[[北伐 (中国国民党)|北伐]]を行い、各地の[[軍閥]]勢力を撃退した。しかしその途上、[[1927年]][[中国共産党]]との対立から[[上海クーデター]]を行い、ソビエト顧問団を追放した。
中国革命を目指す[[孫文]]が[[国民革命軍]]の創設と強化のため、隣国[[ソビエト連邦]]から招いたのが始まりである。孫文の死後に跡を継いだ[[介石]]は、革命軍を率いて[[北伐 (中国国民党)|北伐]]を行い、各地の[[軍閥]]勢力を撃退した。しかしその途上、[[1927年]][[中国共産党]]との対立から[[上海クーデター]]を行い、ソビエト顧問団を追放した。


その後は[[ドイツ]]から顧問団を招き、軍備の増強・近代化を図った。しかし、[[1933年]]に[[国家社会主義ドイツ労働者党|ナチス]]が政権を取ると、ドイツは[[日本]]との関係を強化した。[[1937年]]7月、[[日中戦争]]が勃発すると再びソ連に接近した。同年8月、[[中ソ不可侵条約]]を結んで顧問団を再招聘し、ドイツ顧問団を追放した。
その後は[[ドイツ]]から顧問団を招き、軍備の増強・近代化を図った。しかし、[[1933年]]に[[国家社会主義ドイツ労働者党|ナチス]]が政権を取ると、ドイツは[[日本]]との関係を強化した。[[1937年]]7月、[[日中戦争]]が勃発すると再びソ連に接近した。同年8月、[[中ソ不可侵条約]]を結んで顧問団を再招聘し、ドイツ顧問団を追放した。
8行目: 8行目:
顧問団を含むソ連による中国支援は、[[1941年]]に[[日ソ中立条約]]が結ばれるまで続いた。
顧問団を含むソ連による中国支援は、[[1941年]]に[[日ソ中立条約]]が結ばれるまで続いた。


その後も新疆省では[[イリ・カザフ自治州]]から[[甘粛省]][[安西県]]まで中央政府が黙認する形でソ連からの自動車輸入が続けられていたが、[[盛世才]]が介石への帰順を示したことにより、中央調査統計局と憲兵隊が強制的に接収した<ref>{{Cite news |url = http://www.sohu.com/a/169770619_686810 |title = 【酒泉百年故事】空军四十五站和陆军招待所 |newspaper = 搜狐 |language = 中国語 |date= 2017-09-05|accessdate = 2018-06-25 }}</ref>。
その後も新疆省では[[イリ・カザフ自治州]]から[[甘粛省]][[安西県]]まで中央政府が黙認する形でソ連からの自動車輸入が続けられていたが、[[盛世才]]が介石への帰順を示したことにより、中央調査統計局と憲兵隊が強制的に接収した<ref>{{Cite news |url = http://www.sohu.com/a/169770619_686810 |title = 【酒泉百年故事】空军四十五站和陆军招待所 |newspaper = 搜狐 |language = 中国語 |date= 2017-09-05|accessdate = 2018-06-25 }}</ref>。


==歴代首席顧問==
==歴代首席顧問==
38行目: 38行目:
==文献==
==文献==
{{参照方法|date=2018年7月|section=1}}
{{参照方法|date=2018年7月|section=1}}
*介石(著)『中国のなかのソ連:介石回顧録』毎日新聞社、1957年
*介石(著)『中国のなかのソ連:介石回顧録』毎日新聞社、1957年
*ソビエト連邦科学アカデミー極東研究所(編)、毛里和子(訳)、本庄比佐子(訳)『中国革命とソ連の顧問たち』日本国際問題研究所、1977年
*ソビエト連邦科学アカデミー極東研究所(編)、毛里和子(訳)、本庄比佐子(訳)『中国革命とソ連の顧問たち』日本国際問題研究所、1977年
*ボリス・スラヴィンスキー(著)、加藤幸廣(訳)『日ソ戦争への道:ノモンハンから千島占領まで』共同通信社、1999年、ISBN 4764104288
*ボリス・スラヴィンスキー(著)、加藤幸廣(訳)『日ソ戦争への道:ノモンハンから千島占領まで』共同通信社、1999年、ISBN 4764104288

2020年9月15日 (火) 13:42時点における版

在華ソビエト軍事顧問団(ざいかソビエトぐんじこもんだん)は、中国国民党政権に派遣された、ソ連赤軍軍人によって構成される軍事顧問団である。

概要

中国革命を目指す孫文国民革命軍の創設と強化のため、隣国ソビエト連邦から招いたのが始まりである。孫文の死後に跡を継いだ蔣介石は、革命軍を率いて北伐を行い、各地の軍閥勢力を撃退した。しかしその途上、1927年中国共産党との対立から上海クーデターを行い、ソビエト顧問団を追放した。

その後はドイツから顧問団を招き、軍備の増強・近代化を図った。しかし、1933年ナチスが政権を取ると、ドイツは日本との関係を強化した。1937年7月、日中戦争が勃発すると再びソ連に接近した。同年8月、中ソ不可侵条約を結んで顧問団を再招聘し、ドイツ顧問団を追放した。

顧問団を含むソ連による中国支援は、1941年日ソ中立条約が結ばれるまで続いた。

その後も新疆省ではイリ・カザフ自治州から甘粛省安西県まで中央政府が黙認する形でソ連からの自動車輸入が続けられていたが、盛世才が蔣介石への帰順を示したことにより、中央調査統計局と憲兵隊が強制的に接収した[1]

歴代首席顧問

主な軍事顧問

脚注

  1. ^ “【酒泉百年故事】空军四十五站和陆军招待所” (中国語). 搜狐. (2017年9月5日). http://www.sohu.com/a/169770619_686810 2018年6月25日閲覧。 

文献

  • 蔣介石(著)『中国のなかのソ連:蔣介石回顧録』毎日新聞社、1957年
  • ソビエト連邦科学アカデミー極東研究所(編)、毛里和子(訳)、本庄比佐子(訳)『中国革命とソ連の顧問たち』日本国際問題研究所、1977年
  • ボリス・スラヴィンスキー(著)、加藤幸廣(訳)『日ソ戦争への道:ノモンハンから千島占領まで』共同通信社、1999年、ISBN 4764104288
  • ボリス・スラヴィンスキー(著)、加藤幸廣(訳)『中国革命とソ連:抗日戦までの舞台裏(1917-37年)』共同通信社、2002年、ISBN 4764105136
  • 滝本可紀(訳著)「第1次国共合作期におけるコミンテルン軍事顧問の役割」(1)-(8)『幾徳工業大学研究報告A-人文社会科学編』No.5-12、(1981年-1988年)
  • 滝本可紀(訳著)「第1次国共合作期におけるコミンテルン軍事顧問の役割」(9)-(18)『神奈川工科大学研究報告A-人文社会科学編』No.13-22、(1989年-1998年) - A.И.Черепанов:Записки Военного Советника в Китае の日本語訳