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[[1944年]](昭和19年)[[10月15日]]、海軍少将に昇進。[[1945年]](昭和20年)[[1月6日]]、[[第十一航空戦隊|第11航空戦隊]][[司令官]]に就任。指揮下に[[721空]]があり、11航戦司令部は特攻兵器桜花の戦法について研究と訓練を行う。爆撃隊は戦闘機の直接掩護の密集隊形を希望したが、司令部は自由を得るために間接掩護を主張した。山本は決断を下す前に転出することになったという<ref>山本親雄『大本営海軍部』朝日ソノラマ233-234頁</ref>。
[[1944年]](昭和19年)[[10月15日]]、海軍少将に昇進。[[1945年]](昭和20年)[[1月6日]]、[[第十一航空戦隊|第11航空戦隊]][[司令官]]に就任。指揮下に[[721空]]があり、11航戦司令部は特攻兵器桜花の戦法について研究と訓練を行う。爆撃隊は戦闘機の直接掩護の密集隊形を希望したが、司令部は自由を得るために間接掩護を主張した。山本は決断を下す前に転出することになったという<ref>山本親雄『大本営海軍部』朝日ソノラマ233-234頁</ref>。


[[2月10日]]、[[航空艦隊#第五航空艦隊|第5航空艦隊]]司令部附。[[2月15日]]、連合艦隊司令部附。[[3月1日]]、[[航空艦隊#第十航空艦隊|第10航空艦隊]][[参謀長]]に就任。[[5月25日]]、[[第七十二航空戦隊|第72航空戦隊]]司令官に就任。[[10月10日]]、[[予備役]]編入。戦後は[[中華民国]][[総統]][[介石]]に招聘され、[[白団|中華民国軍事顧問団]](白団)の副団長を務めた。
[[2月10日]]、[[航空艦隊#第五航空艦隊|第5航空艦隊]]司令部附。[[2月15日]]、連合艦隊司令部附。[[3月1日]]、[[航空艦隊#第十航空艦隊|第10航空艦隊]][[参謀長]]に就任。[[5月25日]]、[[第七十二航空戦隊|第72航空戦隊]]司令官に就任。[[10月10日]]、[[予備役]]編入。戦後は[[中華民国]][[総統]][[介石]]に招聘され、[[白団|中華民国軍事顧問団]](白団)の副団長を務めた。


1980年(昭和55年)11月4日、死去。享年84。
1980年(昭和55年)11月4日、死去。享年84。

2020年9月15日 (火) 13:39時点における版

山本 親雄
生誕 1896年10月13日
日本の旗 日本 愛媛県
死没 (1980-11-04) 1980年11月4日(84歳没)
所属組織  大日本帝国海軍
軍歴 1919年 - 1945年
最終階級 海軍少将
除隊後 中華民国軍事顧問団副団長
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山本 親雄(やまもと ちかお、1896年明治29年)10月13日 - 1980年昭和55年)11月4日)は、日本海軍軍人。最終階級は海軍少将

経歴

1896年10月13日、愛媛県松山市に生まれる。愛媛県立松山中学校を経て、1915年9月4日、海軍兵学校第46期に131名中首席で入校。1918年11月21日、124人中次席の成績で卒業、少尉候補生として装甲巡洋艦吾妻」に乗組し、練習艦隊近海航海へ出発、1919年(大正8年)2月7日に帰着する。3月1日、練習艦隊遠洋航海に出発、7月26日に帰着する。8月1日、海軍少尉に任官し、巡洋戦艦鞍馬」に乗組。

1919年9月25日、海軍少尉候補生指導官附として装甲巡洋艦「吾妻」乗組。11月24日、練習艦隊遠洋航海に出発、1920年(大正9年)5月20日に帰着する。6月1日戦艦扶桑」に乗組。12月1日海軍水雷学校普通科学生を拝命。1921年(大正10年)5月20日海軍砲術学校普通科学生を拝命。12月1日、海軍中尉に昇進し、巡洋戦艦「金剛」乗組。

1922年(大正11年)3月1日、臨時航空術講習部員兼横須賀海軍航空隊航空術第7期学生を拝命。11月1日霞ヶ浦海軍航空隊航空術学生を拝命。11月30日、海軍航空術課程を修了。12月15日、霞ヶ浦海軍航空隊教官に就任。1923年(大正12年)12月1日、霞ヶ浦海軍航空隊分隊長心得兼教官に就任。

1924年(大正13年)12月1日、海軍大尉に昇進し、在アメリカ日本大使館附海軍駐在武官補佐官航空関係担当に就任。1926年(大正15年)12月1日、帰朝。7月12日、霞ヶ浦海軍航空隊附兼教官に就任。11月15日、霞ヶ浦海軍航空隊分隊長兼教官に就任。10月18日航空母艦赤城」分隊長兼横須賀海軍航空隊附に就任。1929年(昭和4年)3月25日、免横須賀海軍航空隊附。11月15日、霞ヶ浦海軍航空隊飛行長に就任。11月20日、兼教官。11月30日、海軍少佐に昇進。

1930年(昭和5年)12月1日、海軍大学校甲種第30期学生を拝命。1932年(昭和7年)11月26日、海軍大学校甲種を卒業。卒業時の成績順位は21名中首席。12月1日、横須賀鎮守府附。1933年(昭和8年)1月25日連合艦隊司令部附。3月25日、海軍軍令部出仕兼海軍省人事局第1課に就任。5月10日、海軍省人事局第1課に就任。1934年(昭和9年)11月15日、海軍中佐に昇進。1935年(昭和10年)11月15日、第1航空戦隊参謀に就任。1936年(昭和11年)11月16日軍令部第1部第1課に就任。1937年(昭和12年)11月20日大本営航空参謀兼任。1939年(昭和14年)11月15日、海軍大佐に昇進し、第15海軍航空隊司令兼支那方面艦隊司令部附に就任。1940年(昭和15年)1月10日、第15海軍航空隊司令兼第2航空廠長に就任。11月15日水上機母艦千歳艦長に就任。

1941年(昭和16年)8月20日、海軍航空本部総務部第1課出仕。9月15日、海軍航空本部総務部第1課長に就任。1942年(昭和17年)11月1日、兼総務部第2課長に就任。1943年(昭和18年)1月20日、軍令部第1部第1課出仕。

1943年1月20日、軍令部第1部作戦課長に就任。4月12日、兼第1部第2課長。戦局が悪化すると陸海軍で特攻の動きが現れ始める。山本によれば、部内でも特攻の声は出てきたが、作戦課へは提出されていない、戦力が少ないから軽挙は避けるべしとの立場だったという。しかし、不本意ながら認めざるをえなくなるのなら最大の効果を期せるものをと、桜花、回天などの特攻兵器の研究に取り掛かったという。望ましくないと思いながらも実施部隊の熱意と戦局から押された形だったという[1]

1944年(昭和19年)10月15日、海軍少将に昇進。1945年(昭和20年)1月6日第11航空戦隊司令官に就任。指揮下に721空があり、11航戦司令部は特攻兵器桜花の戦法について研究と訓練を行う。爆撃隊は戦闘機の直接掩護の密集隊形を希望したが、司令部は自由を得るために間接掩護を主張した。山本は決断を下す前に転出することになったという[2]

2月10日第5航空艦隊司令部附。2月15日、連合艦隊司令部附。3月1日第10航空艦隊参謀長に就任。5月25日第72航空戦隊司令官に就任。10月10日予備役編入。戦後は中華民国総統蔣介石に招聘され、中華民国軍事顧問団(白団)の副団長を務めた。

1980年(昭和55年)11月4日、死去。享年84。

年譜

著作

脚注

  1. ^ 戦史叢書45大本営海軍部・聯合艦隊(6)第三段作戦後期付録
  2. ^ 山本親雄『大本営海軍部』朝日ソノラマ233-234頁

参考文献

関連項目

外部リンク