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[[ファイル:Cairo conference.jpg|thumb|right|250px|カイロ会談に参加している[[介石]]、[[フランクリン・ルーズベルト]]、[[ウィンストン・チャーチル]]、1943年11月25日。]]
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'''カイロ会談'''(カイロかいだん、{{lang-en|Cairo Conference}})、または'''セクスタント作戦'''(セクスタントさくせん、{{lang-en-short|Operation Sextant}}<ref name="WSC_Closing the Ring">{{cite book|last=Churchill|first=Winston Spencer|title=The Second World War: Closing the Ring |year=1951|publisher=Houghton Mifflin Company, Boston|pages=642}}</ref>)は[[第二次世界大戦]]中の[[1943年]][[11月22日]]から[[11月26日]]にかけて[[エジプト王国]]の[[カイロ]]で行われた会談。[[連合国 (第二次世界大戦)|連合国]]の対[[大日本帝国]]方針と戦後の[[アジア]]に関する決定がなされた。
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== 概要 ==
== 概要 ==
カイロ会談は[[三大ピラミッド]]近くにあるエジプト駐在アメリカ大使{{仮リンク|アレクサンダー・コムストック・カーク|en|Alexander Comstock Kirk|label=アレクサンダー・カーク}}の邸宅で行われ<ref>{{Cite magazine|magazine=LIFE |url=https://books.google.com/books?id=1UkEAAAAMBAJ&pg=PA80 |first=Noel F. |last=Busch |title=Alexander Kirk |language=en |date=August 13, 1945 |accessdate=January 23, 2011}}</ref>、会談の参加者は[[アメリカ合衆国大統領]][[フランクリン・ルーズベルト]]、[[イギリスの首相]][[ウィンストン・チャーチル]]、[[中華民国の歴史|中華民国]]国民政府主席[[介石]]の3人だった。[[ソビエト連邦]]の指導者[[ヨシフ・スターリン]]はソ連と日本の関係を配慮して、介石との面会を回避したため会談には参加しなかった(1941年の[[日ソ中立条約]]では5年間の相互不可侵が定められており、1943年時点では中華民国、イギリス、アメリカが日本との戦争状態に突入していたが、ソ連と日本の間は戦争状態ではなかった)。
カイロ会談は[[三大ピラミッド]]近くにあるエジプト駐在アメリカ大使{{仮リンク|アレクサンダー・コムストック・カーク|en|Alexander Comstock Kirk|label=アレクサンダー・カーク}}の邸宅で行われ<ref>{{Cite magazine|magazine=LIFE |url=https://books.google.com/books?id=1UkEAAAAMBAJ&pg=PA80 |first=Noel F. |last=Busch |title=Alexander Kirk |language=en |date=August 13, 1945 |accessdate=January 23, 2011}}</ref>、会談の参加者は[[アメリカ合衆国大統領]][[フランクリン・ルーズベルト]]、[[イギリスの首相]][[ウィンストン・チャーチル]]、[[中華民国の歴史|中華民国]]国民政府主席[[介石]]の3人だった。[[ソビエト連邦]]の指導者[[ヨシフ・スターリン]]はソ連と日本の関係を配慮して、介石との面会を回避したため会談には参加しなかった(1941年の[[日ソ中立条約]]では5年間の相互不可侵が定められており、1943年時点では中華民国、イギリス、アメリカが日本との戦争状態に突入していたが、ソ連と日本の間は戦争状態ではなかった)。


アメリカはフランスが[[フランス領インドシナ|インドシナ]]を取り戻すのを望まなかったため、介石にフランス領インドシナの支配権を与えようとしたが拒否された<ref>{{cite web|url=https://www.gale.com/binaries/content/assets/gale-us-en/primary-sources/archives-unbound/primary-sources_archives-unbound_indochina-france-and-the-viet-minh-war-1945-1954_-records-of-the-u.s.-state-department-part-1_-1945-1949.pdf|title=Indochina, France, and the Viet Minh War, 1945-1954: Records of the U.S. State Department, Part 1: 1945-1949|accessdate=10 November 2018}}</ref>。
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1943年11月27日に[[カイロ宣言]]が発された後、12月1日にはラジオを通じて「カイロ・コミュニケ」({{lang|fr|Cairo Communiqué}})が発され<ref name="cairo_communique">{{cite web|url=http://www.ndl.go.jp/constitution/shiryo/01/002_46shoshi.html|publisher=[[国立国会図書館]]|title=カイロ宣言 1943年12月1日 |language=ja |accessdate=2018-12-22}}</ref>、連合国が日本の[[無条件降伏]]まで軍の配備を続ける(軍事行動を継続する)と宣言した。カイロ宣言では三大国(米英中)が戦争を通じて日本の野心を挫け、懲罰しようとし、自身は利益を受けず戦後に領土拡張に加わることもないと宣言、「日本は1914年の[[第一次世界大戦]]開戦以来太平洋で奪取、占領した全ての島嶼を没収される」、「日本が中国人から盗んだ、[[満州]]、[[台湾]]、[[澎湖県|澎湖]]を含む全ての領土は中華民国に返還される」と述べた。また、日本は暴力と貪欲で奪取した全ての領土から排除され、「[[朝鮮]]は適当な時に自由と独立を得る」とも述べた。
1943年11月27日に[[カイロ宣言]]が発された後、12月1日にはラジオを通じて「カイロ・コミュニケ」({{lang|fr|Cairo Communiqué}})が発され<ref name="cairo_communique">{{cite web|url=http://www.ndl.go.jp/constitution/shiryo/01/002_46shoshi.html|publisher=[[国立国会図書館]]|title=カイロ宣言 1943年12月1日 |language=ja |accessdate=2018-12-22}}</ref>、連合国が日本の[[無条件降伏]]まで軍の配備を続ける(軍事行動を継続する)と宣言した。カイロ宣言では三大国(米英中)が戦争を通じて日本の野心を挫け、懲罰しようとし、自身は利益を受けず戦後に領土拡張に加わることもないと宣言、「日本は1914年の[[第一次世界大戦]]開戦以来太平洋で奪取、占領した全ての島嶼を没収される」、「日本が中国人から盗んだ、[[満州]]、[[台湾]]、[[澎湖県|澎湖]]を含む全ての領土は中華民国に返還される」と述べた。また、日本は暴力と貪欲で奪取した全ての領土から排除され、「[[朝鮮]]は適当な時に自由と独立を得る」とも述べた。

2020年9月15日 (火) 13:31時点における版

カイロ会談に参加している蔣介石フランクリン・ルーズベルトウィンストン・チャーチル、1943年11月25日。

カイロ会談(カイロかいだん、英語: Cairo Conference)、またはセクスタント作戦(セクスタントさくせん、: Operation Sextant[1])は第二次世界大戦中の1943年11月22日から11月26日にかけてエジプト王国カイロで行われた会談。連合国の対大日本帝国方針と戦後のアジアに関する決定がなされた。

概要

カイロ会談は三大ピラミッド近くにあるエジプト駐在アメリカ大使アレクサンダー・カーク英語版の邸宅で行われ[2]、会談の参加者はアメリカ合衆国大統領フランクリン・ルーズベルトイギリスの首相ウィンストン・チャーチル中華民国国民政府主席蔣介石の3人だった。ソビエト連邦の指導者ヨシフ・スターリンはソ連と日本の関係を配慮して、蔣介石との面会を回避したため会談には参加しなかった(1941年の日ソ中立条約では5年間の相互不可侵が定められており、1943年時点では中華民国、イギリス、アメリカが日本との戦争状態に突入していたが、ソ連と日本の間は戦争状態ではなかった)。

アメリカはフランスがインドシナを取り戻すのを望まなかったため、蔣介石にフランス領インドシナの支配権を与えようとしたが拒否された[3]

1943年11月27日にカイロ宣言が発された後、12月1日にはラジオを通じて「カイロ・コミュニケ」(Cairo Communiqué)が発され[4]、連合国が日本の無条件降伏まで軍の配備を続ける(軍事行動を継続する)と宣言した。カイロ宣言では三大国(米英中)が戦争を通じて日本の野心を挫け、懲罰しようとし、自身は利益を受けず戦後に領土拡張に加わることもないと宣言、「日本は1914年の第一次世界大戦開戦以来太平洋で奪取、占領した全ての島嶼を没収される」、「日本が中国人から盗んだ、満州台湾澎湖を含む全ての領土は中華民国に返還される」と述べた。また、日本は暴力と貪欲で奪取した全ての領土から排除され、「朝鮮は適当な時に自由と独立を得る」とも述べた。

カイロ会談の終結から2日後、スターリンはイラン帝国テヘランでルーズベルトとチャーチルと会談した(テヘラン会談)。

脚注

  1. ^ Churchill, Winston Spencer (1951). The Second World War: Closing the Ring. Houghton Mifflin Company, Boston. pp. 642 
  2. ^ Busch, Noel F. (August 13, 1945). “Alexander Kirk” (英語). LIFE. https://books.google.com/books?id=1UkEAAAAMBAJ&pg=PA80 January 23, 2011閲覧。. 
  3. ^ Indochina, France, and the Viet Minh War, 1945-1954: Records of the U.S. State Department, Part 1: 1945-1949”. 10 November 2018閲覧。
  4. ^ カイロ宣言 1943年12月1日”. 国立国会図書館. 2018年12月22日閲覧。

参考文献

関連項目

外部リンク