「遠山景久」の版間の差分
m Bot作業依頼: 繡蔣を含む記事の改名に伴うリンク修正依頼 (蔣介石) - log |
|||
107行目: | 107行目: | ||
* 死の数ヶ月前にDNA鑑定により判明した[[婚外子]]がいる。実子は、景久が死去する数ヶ月までは叔父とし、その後、実父として扱われた。 |
* 死の数ヶ月前にDNA鑑定により判明した[[婚外子]]がいる。実子は、景久が死去する数ヶ月までは叔父とし、その後、実父として扱われた。 |
||
* [[1987年]]([[昭和]]62年)、[[東京都]][[千代田区]]神田で[[当て逃げ]]事故を起こす。身代わりに秘書が出頭したが露見し、犯人隠匿教唆の疑いで警察から事情聴取を受けたが、不起訴となった。 |
* [[1987年]]([[昭和]]62年)、[[東京都]][[千代田区]]神田で[[当て逃げ]]事故を起こす。身代わりに秘書が出頭したが露見し、犯人隠匿教唆の疑いで警察から事情聴取を受けたが、不起訴となった。 |
||
* [[岸信介]]や[[産経新聞]]など、日本の保守や右翼団体のほとんどが中華民国の[[ |
* [[岸信介]]や[[産経新聞]]など、日本の保守や右翼団体のほとんどが中華民国の[[蔣介石]]([[中国国民党|国民党]])政権と蜜月関係にあった中で、[[1960年代]]から日本で活動する[[台湾独立運動]]家を支援していた。1964年に出版された台湾独立運動家の[[王育徳]]の著書『台湾―苦悶するその歴史』をきっかけに、王から支援を要請され、何十年にも渡り毎月資金援助していた<ref>[http://www.taiwannation.org.tw/jpn/setsubai1.htm 『台湾青年』創刊の思い出]王雪梅、『[[台湾青年]]』500号、2002年</ref>。 |
||
== 脚注 == |
== 脚注 == |
2020年9月15日 (火) 13:30時点における版
とおやま かげひさ 遠山 景久 | |
---|---|
生誕 |
遠山 景久 (とおやま かげひさ) 1918年10月28日 大日本帝国・東京府東京市神田区神田 (現: 日本・東京都千代田区神田) |
現況 | 死去 |
死没 |
1999年7月13日(80歳没) 不明 |
死因 | 不明 |
住居 | 日本 |
職業 |
アール・エフ・ラジオ日本社長 アール・エフ・ラジオ日本会長 |
活動期間 | 1967年 - 1993年 |
子供 | あり |
遠山 景久(とおやま かげひさ、1918年(大正7年)10月28日[1] - 1999年(平成11年)7月13日[2] )は日本の実業家。アール・エフ・ラジオ日本の社長、会長を務めた。妻は遠山佐和子で、一時期は遠山夫妻でアール・エフ・ラジオ日本の半分以上の株式を持っていた。また、2人の間には、子供がいるが、詳細は明らかにされていない。
略歴
東京府東京市神田区神田(現:東京都千代田区神田)出身。「遠山の金さん」こと江戸化政の町奉行・遠山景元の末裔にあたる[要出典]。
幼少の頃、借財を抱えていた父と死別し、判事を務めていた長兄の下で日本統治時代の台湾・台北で育つ。
次兄・景弘は、東北帝国大学(現:東北大学)に在学中に左翼運動(共産主義運動)に共鳴しており、日本共産党中央再建準備委員会にも参加したが1937年2月に逮捕され獄死。旧制中学卒業後、封建的な三兄・武夫の許に預けられ、厳しい監督下で育つがのちに家出し、愚連隊に身を投じた。
1941年(昭和16年)応召。陸軍士官候補生を経て将校となり、従軍した。1945年(昭和20年)の敗戦後は、軍隊の資材を米軍に没収される前に横領して、それを元手として東京・銀座で運送会社を興して、一時・隆盛を極めた。1946年(昭和21年)1月、日比谷公園で開催された野坂参三の歓迎国民大会に参加して、復員軍人の一人としてアジ演説を行ったこともある。同時期、運送会社のあった銀座で飲食店を開業するが、GHQが飲食店事業の禁止令を発動したため、反発し全国の同業者に呼びかけて組織化し反対運動を展開するも頓挫。終戦からしばらくは左翼思想に共鳴しつつ、小規模な事業を展開する。
後に右翼・反共活動に転向し、出版社『論争社』を経営する傍らで政治評論家としての顔も併せ持つようになる。アール・エフ・ラジオ日本の前身であるラジオ関東の創設者であった河野一郎の遺族からの要請を受けて、『論争社』を経由して1967年(昭和42年)、ラジオ関東に入社。この時点で副社長を務めるようになる。
1970年代後半に入ると、テレビ・ラジオの各局はこぞって新聞社との資本提携を図るようになり、1974年(昭和49年)に東京放送(TBS)の経営から撤退した読売新聞社もラジオの新規の提携先を模索するようになった。1977年(昭和52年)読売側が「巨人戦の単独独占中継権とネット局を含む自社の宣伝及びニュース放送を抱き合わせで契約したい」と突如提案しはじめた。これはNRNのキー局である文化放送・ニッポン放送(フジサンケイグループ)や、JRNのキー局で毎日新聞系のTBSラジオには無理な注文であり、他の在京民放ラジオ局の日本短波放送やFM東京も提案には乗らなかった。
結局、放送対象地域が神奈川県中心であり、毎日新聞社からニュース素材の供給を受けながらも、独立独歩路線の神奈川のローカル放送局であったラジオ関東がこの提案を敢えて呑んだ事で、読売新聞と提携しニュース供給元も乗り換えた。
これを皮切りに1981年(昭和56年)社名を「ラジオ関東」からアール・エフ・ラジオ日本と改名[3]し、送信所の出力も50kWに増力させた。
社号を改名した直後から、所謂『社会の木鐸』という宣言をし、左派系マスコミの糾弾キャンペーンを展開し始めた遠山は、ロックやアイドルタレントを番組から排除すると言いはじめ、反共・タカ派的な報道・論説番組を中心として[4]、一日中、演歌やジャズを流す編成に変貌。同じタカ派のマスコミ経営者でありながら、人事に干渉するフジサンケイの鹿内に対して、編成・製作に干渉する遠山とまで言われた。
1987年(昭和62年)に社長を駒村秀雄に譲り遠山自身は会長に退くも、事実上社内に院政を敷いて影響力を行使した。1989年(平成元年)には、夜9時以降に残っていた若者向け番組は全てなくなる。1991年(平成3年)には一度スポンサーと契約した声優のラジオ番組(「林原めぐみのHeartful Station」など)を突如放送しないなどといった行為まで発生し、その結果、聴取率は年を追うごとに低下し、売上げは激減した。
その後も遠山の強引な経営は続き、アナウンサーをキーパンチャーに転属させ訴訟となったり、管理職の研修を自衛隊で行うなど、労使関係は険悪な状況となり退職者が相次ぎ(アナウンサーとして同局に在籍していた山本剛士のように、他局に移籍したケースもある)、最盛期には150名以上いた社員が36名となった。経営末期の1993年(平成5年)には打ち切られた番組が21本などと異常な状況となり、ワンマン体制に堪えられなくなった社員は、1993年(平成5年)12月21日、駒村社長以下取締役会[5]全会一致で「公共の電波を預かる放送会社の代表としてはふさわしくない」として遠山を解任。後任の社長には読売新聞社・日本テレビ出身の外山四郎が就いた。1994年(平成6年)2月には、アール・エフ・ラジオ日本から「不当な事業で会社に与えた損害の返済」を要求され、自宅を差し押さえられた。これらの影響により、遠山一族所有のアール・エフ・ラジオ日本の株式を読売新聞の傘下にある日本テレビが買取り、残りの額を日本テレビ系列愛の小鳩事業団(現:日本テレビ小鳩文化事業団)に譲渡した。
著書
- 『新党待望論』(1959年、現代社)
- 『思想は発展する』(1960年、論争社)
- 『論客と剣客―現代日本の思想状況』(1961年、論争社)
- 『ヨーロッパケチョンケチョン―優越感のすすめ』(1966年、河出書房新社)
- 『ヨーロッパケチョンケチョン 《異色》旅行ガイド』ぺりかん社 1971
- 『台湾を独立させよう』(2005年、ケイアンドケイプレス)
- 共著
その他
- 東京都議会元議員で初代千代田区区長を務めた遠山景光は四兄。1942年(昭和17年)に生まれた実子を、三兄・武夫に養子として預けている。
- 死の数ヶ月前にDNA鑑定により判明した婚外子がいる。実子は、景久が死去する数ヶ月までは叔父とし、その後、実父として扱われた。
- 1987年(昭和62年)、東京都千代田区神田で当て逃げ事故を起こす。身代わりに秘書が出頭したが露見し、犯人隠匿教唆の疑いで警察から事情聴取を受けたが、不起訴となった。
- 岸信介や産経新聞など、日本の保守や右翼団体のほとんどが中華民国の蔣介石(国民党)政権と蜜月関係にあった中で、1960年代から日本で活動する台湾独立運動家を支援していた。1964年に出版された台湾独立運動家の王育徳の著書『台湾―苦悶するその歴史』をきっかけに、王から支援を要請され、何十年にも渡り毎月資金援助していた[6]。
脚注
- ^ 『現代日本人名録』1987
- ^ 『月刊日本』1999
- ^ 冒頭にアール・エフ(JORF)と付くのは、当時新社名に改名した際、ニッポン放送から名称使用差し止めの仮処分を申し立てられたことや、NHKの日本国外向け国際放送・NHKワールド・ラジオ日本と紛らわしくなるため。
- ^ 放送法は第1条第2項により放送局の不偏不党・自律を保障しているため、通常テレビ・ラジオは論説や社説を流さない(山形放送〈テレビ〉の『YBC社説放送』では、反対意見も扱うことで中立性に配慮している)。各種の論評番組はその論説委員個人の意見である。
- ^ この日の取締役会に遅刻したにもかかわらず定刻に取締役会を開始させたことで、その隙を狙われた。
- ^ 『台湾青年』創刊の思い出王雪梅、『台湾青年』500号、2002年