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明治30年([[1897年]])に[[孫文]](孫逸仙)と知り合い、以後中国大陸における革命運動を援助、池袋で亡命してきた孫文や[[ |
明治30年([[1897年]])に[[孫文]](孫逸仙)と知り合い、以後中国大陸における革命運動を援助、池袋で亡命してきた孫文や[[蔣介石]]を援助した。明治31年([[1898年]])、[[戊戌の政変]]においては香港に逃れた[[康有為]]をともなって帰朝し、朝野の間に斡旋し、同31年([[1898年]])の[[フィリピン独立革命#ポンセ来日と布引丸事件|フィリピン独立革命]]においては参画するところがあった。 |
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哥老会・三合会・興中会の3派の大同団結がなり、明治33年([[1900年]])に恵州義軍が革命の反旗をひるがえすと、新嘉坡(現在の[[シンガポール]])にいた康有為を動かして孫文と提携させようと謀った。しかし刺客と疑われて追放命令を受け、香港に向かったもののそこでもまた追放令を受け、船中において孫逸仙と密議をこらしたが、日本国内における計画はことごとく破れ<ref>その一つに[[中村弥六]]による布引丸事件がある。</ref>、資金も逼迫し、政治的画策は絵に描いた餅になってしまった。この時期に半生記『三十三年の夢』を著述し、明治35年([[1902年]])に『狂人譚』と共に、國光書房より出版した。この『三十三年の夢』が『孫逸仙』という題で中国で抄訳として紹介された事で、「革命家孫逸仙」(孫文)の名が一般に知られるようになり、革命を志す者が孫文の元に集まるようになる。 |
哥老会・三合会・興中会の3派の大同団結がなり、明治33年([[1900年]])に恵州義軍が革命の反旗をひるがえすと、新嘉坡(現在の[[シンガポール]])にいた康有為を動かして孫文と提携させようと謀った。しかし刺客と疑われて追放命令を受け、香港に向かったもののそこでもまた追放令を受け、船中において孫逸仙と密議をこらしたが、日本国内における計画はことごとく破れ<ref>その一つに[[中村弥六]]による布引丸事件がある。</ref>、資金も逼迫し、政治的画策は絵に描いた餅になってしまった。この時期に半生記『三十三年の夢』を著述し、明治35年([[1902年]])に『狂人譚』と共に、國光書房より出版した。この『三十三年の夢』が『孫逸仙』という題で中国で抄訳として紹介された事で、「革命家孫逸仙」(孫文)の名が一般に知られるようになり、革命を志す者が孫文の元に集まるようになる。 |
2020年9月15日 (火) 13:27時点における版
宮崎滔天 | |
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宮崎滔天 | |
生年 | 1871年1月23日 |
生地 | 日本・肥後国玉名郡荒尾村 |
没年 | 1922年12月6日(51歳没) |
没地 | 日本・東京府 |
思想 | アジア主義 |
宮崎 滔天(みやざき とうてん、明治3年12月3日(1871年1月23日) - 大正11年(1922年)12月6日)は、日本で孫文達を支援して、辛亥革命を支えた革命家、および浪曲師。欧州に侵略されているアジアを救うには、アジア文明の中心である中国の独立と中国民衆の自由が先決であり、それが世界平和に繋がるという信念のもと[1]、大陸浪人として活躍した。本名は寅蔵(もしくは虎蔵)。白浪庵滔天と号した。浪曲師としての名前は桃中軒 牛右衛門(とうちゅうけん うしえもん)。桃中軒雲右衛門の浪曲台本も書いた[2]。
略歴
肥後国玉名郡荒尾村(現在の熊本県荒尾市)に郷士・宮崎政賢・佐喜夫妻の末子として生まれる。兄に社会運動家の宮崎八郎、宮崎民蔵、宮崎彌蔵がいた。父には山東家伝二天一流を兄たちとともに習っている。
熊本で徳富蘇峰が主宰していた私塾「大江義塾」でキリスト教や自由主義思想を学び、閉鎖まで義塾で就学した。民権家には演説が付きものだが、このころの滔天は人前で話すのが苦手だったという[3]。
明治19年(1886年)に上京し、東京専門学校(現在の早稲田大学)に入ったが、大江義塾との学風の違いからすぐに中退した。教会に通い、牧師の妻から英語を習った[3]。その後自由民権運動を識り、またキリスト教に帰依(ほどなく棄教)、その後アジア革命(アジア主義運動)に関心を深めた。明治22年(1889年)に長崎のミッションスクール「加伯里(カプリ)英和学校」在学中、スウェーデン人のイサク・アブラハムと知り合い、彼の学校を作ろうと資金援助を頼みに行った前田下学(前田案山子の長男)のところで、下学の妹・槌を知り、婚約(学校計画はイサクがアメリカに強制送還されたため頓挫)[3]。
明治24年(1891年)、初めて上海に渡航した。翌年、槌と結婚し、長男の龍介誕生。おりしも朝鮮で東学党の乱があり、日本と清国との交渉はついに切迫し た。明治28年(1895年)4月に渡米して経済学を学ぶために神奈川県で旅券を取得したが、渡米は実現しなかった。同年7月頃神戸の岩本千綱と連絡し、同年9月末広島の海外渡航株式会社の在バンコク代理人に就職してタイに渡った。明治29年(1896年)6月にはタイより最終的に帰国した[4][5]。外務省の命によって中国秘密結社の実情観察におもむき、中国革命党員との往復があった。
明治30年(1897年)に孫文(孫逸仙)と知り合い、以後中国大陸における革命運動を援助、池袋で亡命してきた孫文や蔣介石を援助した。明治31年(1898年)、戊戌の政変においては香港に逃れた康有為をともなって帰朝し、朝野の間に斡旋し、同31年(1898年)のフィリピン独立革命においては参画するところがあった。
哥老会・三合会・興中会の3派の大同団結がなり、明治33年(1900年)に恵州義軍が革命の反旗をひるがえすと、新嘉坡(現在のシンガポール)にいた康有為を動かして孫文と提携させようと謀った。しかし刺客と疑われて追放命令を受け、香港に向かったもののそこでもまた追放令を受け、船中において孫逸仙と密議をこらしたが、日本国内における計画はことごとく破れ[6]、資金も逼迫し、政治的画策は絵に描いた餅になってしまった。この時期に半生記『三十三年の夢』を著述し、明治35年(1902年)に『狂人譚』と共に、國光書房より出版した。この『三十三年の夢』が『孫逸仙』という題で中国で抄訳として紹介された事で、「革命家孫逸仙」(孫文)の名が一般に知られるようになり、革命を志す者が孫文の元に集まるようになる。
一旦はアジア主義運動に挫折し、自分を見つめ直す意図で桃中軒雲右衛門に弟子入りし、桃中軒牛右衛門の名で浪曲師となる(なお東京・浅草の日本浪曲協会大広間には孫文筆になる「桃中軒雲右衛門君へ」という額が飾られている)。しかし革命の志を捨てたわけではなく、明治38年(1905年)には孫文らと東京で革命運動団体「中国同盟会」を結成した。なお滔天は辛亥革命の孫文のみならず朝鮮開化党の志士・金玉均の亡命も支援しているが、その金玉均が上海で暗殺された後に、遺髪と衣服の一部を持ち込み日本人有志で浅草本願寺で葬儀を営むという義理人情に溢れた人物であった。
明治39年(1906年)、板垣退助の秘書である和田三郎や、平山周、萱野長知らと革命評論社を設立。明治40年(1907年)『革命評論』を創刊して、孫文らの辛亥革命を支援。
明治45年(1912年)1月に、口述筆記『支那革命軍談 附.革命事情』(高瀬魁介編、明治出版社)を出版し、辛亥革命の宣伝につとめた。亡くなる前年まで大陸本土に度々渡航した。
大正11年(1922年)12月6日、腎臓病による尿毒合併症により東京で病没した。享年51。
上海でも孫文ら主催で追悼会が催された。東京文京区の白山神社境内には孫文が亡命中に滔天とともに座った石段が孫文を顕彰する碑とともに保存されている。日本人として、山田良政・山田純三郎兄弟とともに辛亥革命支援者として名を残す。
中華人民共和国の南京中国近代史遺址博物館の中庭に孫文と並んで銅像が建つ。
家族について
妻の槌子は貧乏に耐えて滔天の活動を支え続けた。長男の龍介は、滔天最晩年の大正10年(1921年)に白蓮事件で世を騒がせた。皮肉なことに滔天が浪曲師として博多講演をしていた時に、ご祝儀をくれたのが、柳原白蓮の元夫の伊藤伝右衛門であった。子供達に対して放任主義であった滔天は事件まで何も知らされておらず、新聞に掲載された絶縁状を見て龍介に「いいのか、お前、こんなことをして……」と言って驚いたという。白蓮に対しては事件前から同情を寄せており、駆け落ち後に龍介と引き離されて実家の柳原家に監禁されていた頃の白蓮に一家で励ましの手紙を送るなど、家族として暖かく迎え入れている。
他に子供は次男・震作(1894年 - 1936年)、長女・節(1897年 - 1952年)がある。また数えの33歳の時に長崎で同棲した愛人に女児(リツ)を産ませている。リツは後に宮崎家の二女として認知され、節と同じ東洋女学校に通い、槌子をお母さんと呼んで慕ったという。
龍介の長男・香織は学徒出陣し、1945年(昭和20年)に戦死している。婿を迎えて宮崎家を継いだ龍介の長女・蕗苳(華道家)は、白蓮が始めた短歌結社「ことたま会」と、日中友好のため滔天の事績を伝える民間団体「滔天会」を主宰している。1914年(大正3年)に黄興の支援で建てられた高田村(現豊島区西池袋)の家は滔天の終の棲家となり、現在も子孫が住む。
昭和4年(1929年)、南京で行われた孫文の奉安大典に、槌子・龍介・震作の滔天遺族が国賓として招待された。昭和6年(1931年)にも龍介・燁子夫妻が国賓として招待されている。戦後の昭和31年(1956年)の孫文誕生九十年の祝典に龍介夫妻が招待され、毛沢東・周恩来と共に臨席した。その後も宮崎家と中国の交流は続き、現在も東京の中国大使館に新たに大使が着任した際には自宅に訪問があり、孫文の友人「井戸を掘った人」として5年に一度、国賓として中国に招待されている。
著作(近年刊行)
- 三十三年之夢・幽囚録ほか
- 東京より・亡友録・革命問答ほか
- 独酌放言・狂人譚・明治国姓翁・炬燵の中より・出鱈目日記ほか
- 桃中軒の近状・巡業雑録・支那留学生に就て・米国の今昔ほか
- 支那だより・支那革命のぞ記・書簡集ほか
- 『三十三年の夢』 宮崎龍介・衛藤瀋吉校注、平凡社東洋文庫、初版1967年、ワイド版2006年
- 『三十三年の夢』 島田虔次・近藤秀樹校注、岩波文庫、初版1993年
- 『近代浪漫派文庫(9) 宮崎滔天』 新学社、2005年
- 三十三年之夢、侠客と江戸ッ児と浪花節、浪人界の快男児 宮崎滔天君夢物語、朝鮮のぞ記
- 『宮崎滔天 アジア革命奇譚集』 書肆心水、2006年
- 明治国姓爺、狂人譚
- 『滔天文選 近代日本の狂と夢』 書肆心水、2006年。渡辺京二解説
- 独酌放言、乾坤鎔廬日抄、銷夏漫録 ほか4篇
- 『アジア主義者たちの声 中巻 革命評論社、あるいは中国革命への関与と蹉跌』
伝記
- 渡辺京二 『評伝 宮崎滔天』 書肆心水(新版)、2006年。大和書房、1976年、大和選書、1985年
- 佐藤常雄 『宮崎滔天』 葦書房、1990年
- 上村希美雄 『龍のごとく 宮崎滔天伝』 葦書房、2001年
- 上村希美雄 『宮崎兄弟伝 日本篇』 葦書房(上下)、1984年 - 毎日出版文化賞
- 上村希美雄 『宮崎兄弟伝 アジア篇』 葦書房(上中下)、1987年 - 1999年
- 上村希美雄 『宮崎兄弟伝 完結篇』同刊行会、2004年。創流出版(販売)
- 榎本泰子 『宮崎滔天-万国共和の極楽をこの世に』 ミネルヴァ書房〈日本評伝選〉、2013年
- 加藤直樹 『謀叛の児 宮崎滔天の「世界革命」』 河出書房新社、2017年
- 山本博昭 『宮崎滔天伝 人生これ一場の夢』 書肆侃侃房、2018年
- 田所竹彦 『浪人と革命家 真筆に見る日中の絆 宮崎滔天・孫文たちの日々』 里文出版、2002年
- 三好徹 『革命浪人―滔天と孫文』 中央公論社、1979年/中公文庫、1983年
- 保阪正康 『孫文の辛亥革命を助けた日本人』 ちくま文庫、2009年。元版は朝日ソノラマ、1992年
- 高野澄 『伝 宮崎滔天 日中の懸橋』 徳間文庫、1990年
脚注
- ^ SASTRE, Grégoire, 「大陸浪人とアジア主義―宮崎滔天を例として―」『大学院教育改革支援プログラム「日本文化研究の国際的情報伝達スキルの育成」活動報告書』 平成20年度 海外教育派遣事業編, p.331-333, 2009-03-31, お茶の水女子大学大学院教育改革支援プログラム「日本文化研究の国際的情報伝達スキルの育成」事務局。
- ^ 『現代政界の黒幕を語る』伊佐秀雄 [著] (今日の問題社, 1938)
- ^ a b c 藤田美実、「<論説>文学と革命と恋愛と哲学と : 一冊の本の源流を尋ねて」『立正大学文学部論叢』 80巻 p.5-34, 1984, 立正大学文学部, ISSN 0485215X。
- ^ 村嶋英治 (2017). “1890年代に於ける岩本千綱の冒険的タイ事業(中)”. アジア太平洋討究 29号: 172.
- ^ “早稲田大学リポジトリ”. 2018年4月9日閲覧。
- ^ その一つに中村弥六による布引丸事件がある。
参考文献
- 横田順彌 『明治おもしろ博覧会』、155-158頁、西日本新聞社、1998年
- 鹿野政直 『近代国家を構想した思想家たち』、112-117頁、岩波書店、2005年
- 宮崎蕗苳 『娘が語る白蓮』 山本晃一編、河出書房新社、2014年
関連項目
外部リンク
- 荒尾の歴史
- 荒尾市宮崎兄弟資料館
- 書肆心水での詳細な滔天紹介・年譜
- 孫文の革命は東京から始まった|朝日新聞 歴史は生きている
- 『三十三年の夢』 - 国立国会図書館デジタルコレクション
- 『狂人譚』 - 国立国会図書館デジタルコレクション
- 山口光朔、「宮崎滔天のアジア主義 : 大陸浪人の一類型」『桃山学院大学紀要』 1巻 2号 p.59-119, 1963年, NCID AN00240497
- 藪田謙一郎, 「宮崎滔天の「アジア主義」と第一次世界大戦後の世界思潮」『同志社法學』 48巻 1号 p.277-377, 1996年, doi:10.14988/pa.2017.0000010270