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== 歴史 ==
== 歴史 ==
[[ファイル:Huangpu Junxiao 1.JPG|thumb|校舎]]
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[[北伐 (中国国民党)|北伐]]を志す[[孫文]]は[[1923年]]8月に[[介石]]を[[ソビエト連邦|ソ連]]に派遣して3ヶ月間軍制の視察をさせた<ref>サンケイ新聞 1975 pp.50-62</ref>。[[1924年]][[1月20日]]広州の広東高等師範学校において国民党は第一回全国代表大会を開くと<ref>サンケイ新聞 1975 p.64</ref>「連ソ容共政策」が具体的になり<ref>サンケイ新聞 1975 p.64</ref>、政策実践のため軍閥から独立した党軍が必要であるとして軍官学校(士官学校)を創設することになった<ref>森下 1970 p.18</ref>。その場所は以前、広東陸軍学堂と[[黄埔海軍学校|広東海軍学校]]があった[[広東省]]広州の長洲島にある[[黄埔区|黄埔]]とされた。5月には介石が校長、[[廖仲愷]]が軍校駐在の国民党代表、[[李済深]]が教練部主任、[[王柏齢]]が教授部主任、[[戴季陶]]が政治部主任、[[何応欽]]が総教官、共産党員の中からも[[葉剣英]]が教授部副主任、[[周恩来]]が政治部副主任に就任した<ref>サンケイ新聞 1975 p.73</ref>。[[毛沢東]]も、面接に試験官であった。
[[北伐 (中国国民党)|北伐]]を志す[[孫文]]は[[1923年]]8月に[[介石]]を[[ソビエト連邦|ソ連]]に派遣して3ヶ月間軍制の視察をさせた<ref>サンケイ新聞 1975 pp.50-62</ref>。[[1924年]][[1月20日]]広州の広東高等師範学校において国民党は第一回全国代表大会を開くと<ref>サンケイ新聞 1975 p.64</ref>「連ソ容共政策」が具体的になり<ref>サンケイ新聞 1975 p.64</ref>、政策実践のため軍閥から独立した党軍が必要であるとして軍官学校(士官学校)を創設することになった<ref>森下 1970 p.18</ref>。その場所は以前、広東陸軍学堂と[[黄埔海軍学校|広東海軍学校]]があった[[広東省]]広州の長洲島にある[[黄埔区|黄埔]]とされた。5月には介石が校長、[[廖仲愷]]が軍校駐在の国民党代表、[[李済深]]が教練部主任、[[王柏齢]]が教授部主任、[[戴季陶]]が政治部主任、[[何応欽]]が総教官、共産党員の中からも[[葉剣英]]が教授部副主任、[[周恩来]]が政治部副主任に就任した<ref>サンケイ新聞 1975 p.73</ref>。[[毛沢東]]も、面接に試験官であった。


[[5月5日]]に3,000名の受験生の中から選ばれた350名が入学し三個隊に編成され、予備合格120名は[[5月7日]]第四の隊に編成された<ref>サンケイ新聞 1975 p.72</ref>。[[6月16日]]開校式典を挙行し<ref>サンケイ新聞 1975 p.82</ref>、孫文が演説、その一節は[[中華民国国歌]]となった。
[[5月5日]]に3,000名の受験生の中から選ばれた350名が入学し三個隊に編成され、予備合格120名は[[5月7日]]第四の隊に編成された<ref>サンケイ新聞 1975 p.72</ref>。[[6月16日]]開校式典を挙行し<ref>サンケイ新聞 1975 p.82</ref>、孫文が演説、その一節は[[中華民国国歌]]となった。


黄埔軍官学校には当時革命軍にいた才能ある人材が集まったが、卒業生の中には、のちに人民解放軍の指揮官となった[[徐向前]]、国民党軍指揮官となった[[杜聿明]]、[[胡宗南]]、[[鄭洞国]]らがいる。その教師と卒業生で組織された革命軍「教導団」は1925年1月の第一次東征の後に「党軍」となった<ref>サンケイ新聞 1975 pp.138-139</ref>。この学校を卒業した者はのちに[[国民革命軍]]の中核となっていき、また在学生や卒業生が国民政府の統治に大きく貢献したので、介石は急速に影響力を増した。また国民党の幹部だけでなく[[中国共産党|共産党]]の指揮官になった[[林彪]]、{{要出典範囲|date=2015-06-20|[[彭徳懐]]}}、[[陶鋳]]などもこの学校の出身者である。国民党が独自の軍隊を組織できるようになったことで、従来までのように地方軍閥に依存することなく、[[国民革命]]を推進できるようになった。
黄埔軍官学校には当時革命軍にいた才能ある人材が集まったが、卒業生の中には、のちに人民解放軍の指揮官となった[[徐向前]]、国民党軍指揮官となった[[杜聿明]]、[[胡宗南]]、[[鄭洞国]]らがいる。その教師と卒業生で組織された革命軍「教導団」は1925年1月の第一次東征の後に「党軍」となった<ref>サンケイ新聞 1975 pp.138-139</ref>。この学校を卒業した者はのちに[[国民革命軍]]の中核となっていき、また在学生や卒業生が国民政府の統治に大きく貢献したので、介石は急速に影響力を増した。また国民党の幹部だけでなく[[中国共産党|共産党]]の指揮官になった[[林彪]]、{{要出典範囲|date=2015-06-20|[[彭徳懐]]}}、[[陶鋳]]などもこの学校の出身者である。国民党が独自の軍隊を組織できるようになったことで、従来までのように地方軍閥に依存することなく、[[国民革命]]を推進できるようになった。


黄埔軍校の最初の教員はソ連から来た者が多く、[[ヴァシーリー・ブリュヘル]]など赤軍の指揮官もいた。しかし、[[北伐 (中国国民党)|北伐]]期間中、[[国共分裂]]したため、ソ連や共産党系教員、学生は引き上げている。
黄埔軍校の最初の教員はソ連から来た者が多く、[[ヴァシーリー・ブリュヘル]]など赤軍の指揮官もいた。しかし、[[北伐 (中国国民党)|北伐]]期間中、[[国共分裂]]したため、ソ連や共産党系教員、学生は引き上げている。
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== 参考文献 ==
== 参考文献 ==
*サンケイ新聞『[[介石秘録]] 6 共産党の台頭』サンケイ新聞 1975年
*サンケイ新聞『[[介石秘録]] 6 共産党の台頭』サンケイ新聞 1975年
*森下修一『国共内戦史』三州書房 1970年
*森下修一『国共内戦史』三州書房 1970年
== 外部サイト ==
== 外部サイト ==

2020年9月15日 (火) 13:24時点における版

黄埔軍官学校
黄埔軍官学校シンボル
各種表記
繁体字 黃埔軍校
簡体字 黄埔军校
拼音 Huángpŭ Jūnxiào
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黄埔軍官学校(こうほぐんかんがっこう)は中華民国大総統の孫文1924年広州に設立した中華民国陸軍士官養成学校である。黄埔軍官学校の設立は孫文の主要な顧問となっていた、コミンテルン工作員ミハイル・ボロディンの進言によるものであった。当時は第一次国共合作が行われていたため、中国国民党だけでなく、中国共産党の軍人も入校した。後、台湾陸軍軍官学校として再建されている。黄埔北京語ではホアンプー (Huangpu)、広東語でウォーンボウと読み、英語では Whampoa とあてる。

歴史

校舎

北伐を志す孫文1923年8月に蔣介石ソ連に派遣して3ヶ月間軍制の視察をさせた[1]1924年1月20日広州の広東高等師範学校において国民党は第一回全国代表大会を開くと[2]「連ソ容共政策」が具体的になり[3]、政策実践のため軍閥から独立した党軍が必要であるとして軍官学校(士官学校)を創設することになった[4]。その場所は以前、広東陸軍学堂と広東海軍学校があった広東省広州の長洲島にある黄埔とされた。5月には蔣介石が校長、廖仲愷が軍校駐在の国民党代表、李済深が教練部主任、王柏齢が教授部主任、戴季陶が政治部主任、何応欽が総教官、共産党員の中からも葉剣英が教授部副主任、周恩来が政治部副主任に就任した[5]毛沢東も、面接に試験官であった。

5月5日に3,000名の受験生の中から選ばれた350名が入学し三個隊に編成され、予備合格120名は5月7日第四の隊に編成された[6]6月16日開校式典を挙行し[7]、孫文が演説、その一節は中華民国国歌となった。

黄埔軍官学校には当時革命軍にいた才能ある人材が集まったが、卒業生の中には、のちに人民解放軍の指揮官となった徐向前、国民党軍指揮官となった杜聿明胡宗南鄭洞国らがいる。その教師と卒業生で組織された革命軍「教導団」は1925年1月の第一次東征の後に「党軍」となった[8]。この学校を卒業した者はのちに国民革命軍の中核となっていき、また在学生や卒業生が国民政府の統治に大きく貢献したので、蔣介石は急速に影響力を増した。また国民党の幹部だけでなく共産党の指揮官になった林彪彭徳懐[要出典]陶鋳などもこの学校の出身者である。国民党が独自の軍隊を組織できるようになったことで、従来までのように地方軍閥に依存することなく、国民革命を推進できるようになった。

黄埔軍校の最初の教員はソ連から来た者が多く、ヴァシーリー・ブリュヘルなど赤軍の指揮官もいた。しかし、北伐期間中、国共分裂したため、ソ連や共産党系教員、学生は引き上げている。

広州が1928年軍閥の攻撃を受けたため、南京に移り、1938年日本軍の南京占領後は成都に移転した。第二次世界大戦後、国共内戦により、共産党が勝利し、国民党は台湾に逃れた。1950年黄埔軍官学校は台湾高雄県鳳山市で陸軍軍官学校として再建された。黄埔軍官学校の跡地 (zh:黄埔军校旧址は1988年に中華人民共和国の全国重点文物保護単位に指定された。

脚注

  1. ^ サンケイ新聞 1975 pp.50-62
  2. ^ サンケイ新聞 1975 p.64
  3. ^ サンケイ新聞 1975 p.64
  4. ^ 森下 1970 p.18
  5. ^ サンケイ新聞 1975 p.73
  6. ^ サンケイ新聞 1975 p.72
  7. ^ サンケイ新聞 1975 p.82
  8. ^ サンケイ新聞 1975 pp.138-139

関連項目

参考文献

  • サンケイ新聞『蔣介石秘録 6 共産党の台頭』サンケイ新聞 1975年
  • 森下修一『国共内戦史』三州書房 1970年

外部サイト

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