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== 概要 ==
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[[毛沢東]]は[[軍閥]]や[[列強]]に対抗するには民衆による革命運動では限界があることを認識していた。一方[[中国国民党]]では、[[1920年代]]の時点で貧弱な装備ながらも軍隊を保持しており、[[介石]]は軍隊を用いて[[反共]][[クーデター]]([[上海クーデター]])をおこし、[[第一次国共合作]]を崩壊させた。[[中国共産党]]はこの苦い経験から独自の軍隊の創設を迫られることになった。
[[毛沢東]]は[[軍閥]]や[[列強]]に対抗するには民衆による革命運動では限界があることを認識していた。一方[[中国国民党]]では、[[1920年代]]の時点で貧弱な装備ながらも軍隊を保持しており、[[介石]]は軍隊を用いて[[反共]][[クーデター]]([[上海クーデター]])をおこし、[[第一次国共合作]]を崩壊させた。[[中国共産党]]はこの苦い経験から独自の軍隊の創設を迫られることになった。


[[毛沢東思想]]による[[人民戦争理論]](「点化した敵軍を、人民の海のなかに埋葬する」―[[人海戦術]])に従い、共産党は中国各地への浸透工作を積極的におこなった。共産党に協力的な地域を、村落、都市に広げるのが目的である。これらの活動の結果、共産党勢力は草の根的に増殖し、遊撃兵力を各地に展開させることも容易になった。
[[毛沢東思想]]による[[人民戦争理論]](「点化した敵軍を、人民の海のなかに埋葬する」―[[人海戦術]])に従い、共産党は中国各地への浸透工作を積極的におこなった。共産党に協力的な地域を、村落、都市に広げるのが目的である。これらの活動の結果、共産党勢力は草の根的に増殖し、遊撃兵力を各地に展開させることも容易になった。

2020年9月15日 (火) 13:08時点における版

青天白日の軍旗を持った八路軍兵士
八路軍を描いた絵画

八路軍(はちろぐん、パーロぐん、パールーグン、簡体字:八路军、拼音: bālù-jūn)とは、日中戦争時に華北方面で活動した中国共産党軍紅軍)の通称である。1937年8月中国工農紅軍中華民国国民革命軍第八路軍方面軍に相当する編制単位)として国民政府指揮下に編入されたことから[1]、この名称で呼ばれた。のちに第十八集団軍へ改編されたが、八路軍の通称は残った。現在の中国人民解放軍の前身のひとつ。

概要

毛沢東軍閥列強に対抗するには民衆による革命運動では限界があることを認識していた。一方中国国民党では、1920年代の時点で貧弱な装備ながらも軍隊を保持しており、蔣介石は軍隊を用いて反共クーデター上海クーデター)をおこし、第一次国共合作を崩壊させた。中国共産党はこの苦い経験から独自の軍隊の創設を迫られることになった。

毛沢東思想による人民戦争理論(「点化した敵軍を、人民の海のなかに埋葬する」―人海戦術)に従い、共産党は中国各地への浸透工作を積極的におこなった。共産党に協力的な地域を、村落、都市に広げるのが目的である。これらの活動の結果、共産党勢力は草の根的に増殖し、遊撃兵力を各地に展開させることも容易になった。

1937年日中戦争支那事変)が勃発すると、国民党軍が前線で日本軍と対峙し、八路軍は便衣兵としてテロゲリラ戦で、主に日本軍の輸送部隊や小部隊を攻撃し、鉄道などの輸送網の破壊も行った。また日本軍は広大な中国大陸で小部隊を分散せざるを得なかったため、八路軍の攻撃は日本軍の作戦行動や農村部の支配に打撃を与えた。農村部においては、日本軍が安全に行動できるのは大きな街の周囲などわずかな地域で、八路軍の襲撃が多い地域や支配がまったく及ばない地域の方が多かった[2]。 このため「日本軍は点と線しか確保できなかった」と評される。

1945年8月の日本の敗戦後、国共内戦が再開すると、八路軍は更に大きな力を発揮するようになる。満州では、関東軍の装備を接収したソ連軍は、これをそのまま八路軍に与えた[3]。共産党軍が初めて保有した戦車功臣号は満州で関東軍から接収したものだった。また、日本兵を含む残留日本人を八路軍に編入することで軍事技術や専門技術を得た。空軍のなかった八路軍は林弥一郎少佐以下関東軍第二航空団第四練精飛行隊員を取り込み、東北民主連軍航空学校を設立し、航空部隊を養成した。また、正規の砲兵隊がなかったので日向勝を筆頭とした日本人教官の基で砲兵学校を設立した。医師や衛生兵、看護婦など、戦争に欠かせない技術を持つものは日本に帰国させず、国共内戦勝利後も長きにわたって徴用した(後に衆議院議員厚生大臣となる戸井田三郎夫妻など)。八路軍は国民党軍との戦いに勝利し、1949年10月の中華人民共和国建国に大きな役割を果たした。

歴史

前身

現在使われていない歴史的な旗中華ソビエト共和国の国旗
現在使われていない歴史的な旗中華ソビエト共和国の軍旗

当初組織された共産党軍(紅軍)は、秋収蜂起を戦った毛沢東指揮下の中国工農紅軍と南昌蜂起で決起した朱徳翼下の紅軍が井崗山で合流し、中国工農革命紅軍第四軍となり、後に中国工農紅軍第四軍となった。第四軍はその後江西省瑞金中華ソビエト解放区に本拠を置いたが、5回にわたる国民党軍の包囲攻撃にあい、根拠地を放棄する(長征)。

この結果、根拠地を江西省から陝西省に移動した中国工農紅軍は、西北紅軍と共同戦線を展開し、東進して山西省を窺う情勢にあった。

誕生

このような情勢下、西安事件を受けて第二次国共合作が実現するや、1937年8月25日に中国工農紅軍と西北紅軍はともに解散し、新たに中国国民革命軍第十八集団八路軍と改組され、一般に八路軍と呼ばれることになる。

同時に中国南方地域では紅軍は中国革命軍新篇第四軍、或いは陸軍新篇第四軍と呼ばれる組織に改変され、一般に新四軍と呼ばれることになる。

消滅

1947年に第二次国共合作が崩壊すると、八路軍は新四軍とともに中国人民解放軍に編入された(既述のとおり、そもそも「八路軍」、「新四軍」という名称は、国民党と共産党の提携「国共合作」に基づき共産党の紅軍が中華民国国民政府の軍隊に編入された際のものであった)。

行動地域

八路軍は主に日本陸軍占領地域の後方攪乱とゲリラ戦を担当した。1940年8月から華北において百団大戦という鉄道や炭鉱に対する大規模なゲリラ攻勢を行い、日本軍を一時的に混乱させたが、日本軍の本格的な攻勢が始まると忽ち一掃された。これ以降、このゲリラ戦に対して、日本陸軍 第1軍の反撃も三光作戦などと呼ばれたように本格化ないし泥沼化した。

戦果

八路軍の戦果は、中国側の研究によれば、作戦回数は約99,800回、戦死または戦傷させた日本軍の合計人数は約401,600人、戦死または戦傷させた「偽軍(主に汪兆銘傀儡政府によって組織された軍を指す)」の合計人数は約312,200人となっている[4]


規模

八路軍の兵力は1937年7月時点で3万人、1938年に15万6千人、1940年に40万人に増員された。1941-1944年間の戦闘により、約30万人にまで減少するが、1945年段階で計60万人程度の規模に達していた。

組織

  • 総指揮官:朱徳
  • 副総指揮官:彭徳懐
  • 参謀長:葉剣英
  • 総政治部(第八路軍政治部)主任:任弼時
  • 正規師団

第115師団 師長 林彪 副師長 聶栄臻 政訓処主任 羅栄桓

第120師団 師長 賀竜 副師長 蕭克 政訓処主任 関向応

第129師団 師長 劉伯承 副師長 徐向前 政訓処主任 張浩(後に鄧小平と交代)

各師団はそれぞれ二個旅団があり、他に独立団、騎兵営、砲兵営、輜重営、教導団、特務営などがあった。

また、紅軍にはソ連赤軍に倣って政治委員のポストがあったが、編入された国民革命軍にはそのようなポストは存在しないため、政治委員は便宜的に政訓処主任の地位に就いた。後に国民党との関係が悪化すると、政治委員制度は復活した。

なお、この編成は初期のものであり、八路軍の発展に伴って師団とは別に第一縦隊、第二縦隊、晋察冀軍区、陝甘晋綏連防軍、山東軍区などが誕生した(ただしその司令官は、三個師団の師長、副師長が兼任している場合が多い)

これら正規軍の他に、生産を離れ遊撃戦を行う地方軍、生産を離れず適時遊撃戦に参加する民兵が多数組織され、41年以降はこれらの非正規軍の活躍が目立った。

評価

民衆に根ざした八路軍は兵站の確保も容易であると共に、一般市民に紛れ、攻撃は神出鬼没のゲリラ戦を行った。日本軍と同盟関係にあった南京政府側の民衆組織「新民会」等が同様の民衆工作に取り組み、八路軍に対抗していた。

国民党軍(重慶政府軍)はアメリカからの援助により装備は優れていたものの、兵力温存を図り日本軍との正面決戦を避ける傾向があり、弱兵として日本軍に侮られた。一方、地域によってはむしろ八路軍を弾圧、もしくは八路軍に対して積極攻勢に出る場合すらあった(百団大戦直後の1940年10月にも重慶政府軍は八路・新四軍へ大規模な攻撃を行っている)。

国民党軍が兵力温存を図ったのは、抗日戦勝利後の共産党との決戦に備えたものであるが、この戦略は完全に裏目に出てしまう。抗日戦で果敢に日本軍と戦った八路軍が特に華北を中心に民衆の支持を集めたのに対し、国民党軍は民衆と完全に乖離した。国民党を援助していたアメリカも、国民党の態度に不審を覚え、むしろ八路軍に好意を抱く事となった(アメリカ陸軍から派遣されていたジョセフ・スティルウェル中将の解任もこれが原因)。

結果的に八路軍(=人民解放軍)はその後の中国革命戦争(国共内戦)において大衆の支持を集め、中華人民共和国政府の樹立に貢献した。

八路軍将兵に対しては「三大紀律八項注意」という規則があった。

軍服と軍帽の色はともに黄土色だが、紅軍時代の藍色の軍服の者も多かった。左腕に「八路」と書かれた腕章をつける。軍靴ではなく布靴やわらじを履くのが一般的だった。

国府軍への反発から戦後八路軍へ入隊する日本軍人も少なくなかった。八路軍に降った日本軍将兵はソ連の赤軍に降った将兵と比較すると内地帰還・収容所待遇などに厚遇を受けたため、八路軍に対しては好意的な意識を持つ旧日本軍将兵もいる。支那派遣軍勤務だった昭和天皇の弟三笠宮崇仁親王も八路軍の軍紀に魅了されていた[5]。ただし特殊技能を持つ旧日本軍将兵(航空機・戦車等の機動兵器、医療関係)は永く留め置かれ、帰国が遅れた者も少なくない(代表例として、気象台勤務であった作家の新田次郎など)。

南鉄心によると、金学鉄[6]は、自身の体験を綴った小説では八路軍が日本軍を攻撃した際に捕虜となった朝鮮人の慰安婦について「貧困によって売られた」「後方では売れないので前方に送られた」「一日に20~30人を相手にすると腰痛が酷い」と書いており、聞き書きでは朝鮮人の慰安婦たちを引き取って薪取りなどの仕事に従事させたと述べたとされている[7]

また、聶栄臻のように、戦災で親を亡くした日本人の姉妹に、自ら直筆の手紙を持たせて日本へと送るよう配慮した人物もいた。

戦後、八路軍に拘束された日本軍人が、逆さ吊りの上に4斗程度の水を飲ませられる水責め、600発以上を超える全身殴打、座らせられた上で足と手を一緒にして縛られ、これに太い梶棒を入れて吊るし上げられる等の拷問を約15日間加えられた上、「民主裁判」にかけられて死刑宣告を受け、八路軍への協力を強要された事件も、被害者自身の口から衆議院で生々しく語られた[8]

参考文献

関連項目

脚注

  1. ^ 八路軍(はちろぐん)の意味”. goo国語辞書. 2019年12月6日閲覧。
  2. ^ 『北支の治安戦 1』防衛庁戦史編纂室編/朝雲社発行
  3. ^ ああ……悲劇の通化暴動事件!二十一、「八路来了」(パーロー、ライラー)
  4. ^ 『八路軍史』張立華、董宝訓/2006年 青島出版(中国)発行
  5. ^ 三笠宮崇仁『古代オリエント史と私』学生社 1984年 33~37頁
  6. ^ 上海の抗日独立運動組織「民族革命党」や朝鮮義勇隊(後の朝鮮義勇軍)に所属し、中国共産党に入党し抗日パルチザンとして活躍した
  7. ^ 『激情時代』の女性たち:Women in "The Passionate Age"  南鉄心。(リンク先「フルテキストへのリンク」のPDFファイルで閲覧可)
  8. ^ 山田勝治参考人の証言。衆議院 海外同胞引揚に関する特別委員会. 第7回国会. Vol. 12. 31 March 1950. 山田参考人 いわゆるつるし上げです。水を結局四斗ばかり飲まされました。縛つて、さかさに頭を低くしまして、水道の栓を持つて来まして、目のところに手ぬぐいを当てまして、身は寸分の身動きもできないようにして飲ませるわけです。約四斗ばかり飲まされました。肝臓がそのときに肥大しまして、まだよくなつていない。そうして大体私の勘足したのでは、六百くらいは勘定しました、あとは勘定できなかうたのですが、からだというからだは、ほとんどましようなからだはなかつた、全部はれて青くなつておる。