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建武8年([[32年]])、高峻は[[大司馬]][[呉漢]]の軍に従属して、隗囂を[[冀県 (甘粛省)|冀県]](天水郡)に包囲した。しかし、呉漢の軍は兵糧の欠乏により退却したため、高峻は漢に叛いて隗囂の下へ帰参し、隴坻(天水郡隴県)を守備した。 |
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建武9年([[33年]])に隗囂が病没しても、高峻は誅殺を恐れて漢に再び降ろうとせず、旧本拠地の第一城を守備する。建威大将軍[[ |
建武9年([[33年]])に隗囂が病没しても、高峻は誅殺を恐れて漢に再び降ろうとせず、旧本拠地の第一城を守備する。建威大将軍[[耿弇]]が、[[光禄勲|太中大夫]]竇士、武威[[太守]][[梁統]]らを率いて高峻を攻撃したが、1年かかっても下すことができなかった。 |
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建武10年([[34年]])8月、光武帝は汧([[右扶風]])へ親征したが、やはり高峻は下らず、[[寇恂]]を第一城に派遣し、高峻に降伏を促す璽書を届ける。その応答として、高峻は[[軍師]]の皇甫文を光武帝の下に派遣したが、皇甫文の言辞・礼儀は不屈であった。これに怒った寇恂は、周囲の諫止も聞かずに皇甫文を斬り、その侍従に「軍師は無礼により処刑した。降りたければ急いで降れ。それを望まないならば、守りを固めよ」との言を高峻に伝えさせる。智嚢である皇甫文を喪って恐れおののいた高峻は、直ちに城門を開いて降伏し、寇恂により[[洛陽]]に連行された。 |
建武10年([[34年]])8月、光武帝は汧([[右扶風]])へ親征したが、やはり高峻は下らず、[[寇恂]]を第一城に派遣し、高峻に降伏を促す璽書を届ける。その応答として、高峻は[[軍師]]の皇甫文を光武帝の下に派遣したが、皇甫文の言辞・礼儀は不屈であった。これに怒った寇恂は、周囲の諫止も聞かずに皇甫文を斬り、その侍従に「軍師は無礼により処刑した。降りたければ急いで降れ。それを望まないならば、守りを固めよ」との言を高峻に伝えさせる。智嚢である皇甫文を喪って恐れおののいた高峻は、直ちに城門を開いて降伏し、寇恂により[[洛陽]]に連行された。 |
2020年9月14日 (月) 23:15時点における版
高 峻(こう しゅん、生没年不詳)は、中国の新代から後漢時代初期にかけての武将。
事跡
漢への帰順
姓名 | 高峻 |
---|---|
時代 | 新代 - 後漢時代 |
生没年 | 〔不詳〕 |
字・別号 | 〔不詳〕 |
出身地 | 〔不詳〕 |
職官 | 通路将軍〔後漢〕 |
爵位・号等 | 関内侯〔後漢〕 |
陣営・所属等 | 隗囂→光武帝→公孫述 |
家族・一族 | 〔不詳〕 |
隴右[1]に割拠した新末後漢初の群雄の1人隗囂に仕えた武将である。万単位の軍勢を率いて第一城(安定郡高平県)に拠っていた。
建武7年(31年)、隗囂が漢に叛くと、高峻は朝那(安定郡)で漢将王常と交戦したが、敗北した。その後、降伏を促す光武帝の詔書を馬援から受け取ると、高峻は漢に降伏し、これにより、漢軍は河西[2]方面への道が開ける。高峻は、中郎将来歙を通して、通路将軍に任命され、関内侯に封じられた。
再度の裏切り
建武8年(32年)、高峻は大司馬呉漢の軍に従属して、隗囂を冀県(天水郡)に包囲した。しかし、呉漢の軍は兵糧の欠乏により退却したため、高峻は漢に叛いて隗囂の下へ帰参し、隴坻(天水郡隴県)を守備した。
建武9年(33年)に隗囂が病没しても、高峻は誅殺を恐れて漢に再び降ろうとせず、旧本拠地の第一城を守備する。建威大将軍耿弇が、太中大夫竇士、武威太守梁統らを率いて高峻を攻撃したが、1年かかっても下すことができなかった。
建武10年(34年)8月、光武帝は汧(右扶風)へ親征したが、やはり高峻は下らず、寇恂を第一城に派遣し、高峻に降伏を促す璽書を届ける。その応答として、高峻は軍師の皇甫文を光武帝の下に派遣したが、皇甫文の言辞・礼儀は不屈であった。これに怒った寇恂は、周囲の諫止も聞かずに皇甫文を斬り、その侍従に「軍師は無礼により処刑した。降りたければ急いで降れ。それを望まないならば、守りを固めよ」との言を高峻に伝えさせる。智嚢である皇甫文を喪って恐れおののいた高峻は、直ちに城門を開いて降伏し、寇恂により洛陽に連行された。
以後、高峻の名は史書に現れず、どのように処分されたかは不明である。
脚注
参考文献
- 『後漢書』列伝6寇恂伝
- 同本紀1下光武帝紀下
- 同列伝5王常伝
- 同列伝14馬援伝