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[[弘仁]]13年([[822年]])[[主膳監|主膳監正]]に任ぜられる。[[淳和天皇|淳和]]朝では[[美濃国#国司|美濃大掾]]・[[近江国#国司|近江]][[掾|大掾]]・[[大和国#国司|大和介]]と地方官を歴任し、この間の[[天長]]4年([[827年]])に[[従五位|従五位下]]に[[叙爵]]している。
[[弘仁]]13年([[822年]])[[主膳監|主膳監正]]に任ぜられる。[[淳和天皇|淳和]]朝では[[美濃国#国司|美濃大掾]]・[[近江国#国司|近江]][[掾|大掾]]・[[大和国#国司|大和介]]と地方官を歴任し、この間の[[天長]]4年([[827年]])に[[従五位|従五位下]]に[[叙爵]]している。


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[[承和 (日本)|承和]]2年([[835年]])[[刑部省|大判事]]に転じたのち、承和9年([[842年]])[[散位寮|散位頭]]、承和11年([[844年]])[[少納言]]と、[[仁明天皇|仁明]]朝では京官を歴任する。承和12年([[845年]])直名自身が有力[[檀那|檀越]]であった[[法隆寺]]の僧・[[善愷]]から、寺財の不当売却とその利益の不当収取(布22端3丈に相当)を理由に訴えられる。[[弁官]]らの審理により当初遠流の判決を受けるが、承和13年([[846年]])には[[弁官|右少弁]]・[[伴善男]]の主張により訴訟は無効とされ、直名は無罪となった([[善愷訴訟事件]])<ref name="snk">『続日本後紀』承和13年11月14日条</ref>。


直名は無罪となったもの、事件後間もない承和14年([[847年]])正月に[[大宰府|大宰少弐]]として地方官に転任する。さらに[[嘉祥]]2年([[849年]])8月には[[豊後国#国司|豊後権守]]に転じ、同年12月には直名が[[謀反]]したとして大宰府より[[朝廷]]に対して報告がなされている<ref>『続日本後紀』嘉祥2年12月13日条</ref>。その後[[流罪]]となるが、[[嘉祥]]3年([[850年]])罪を赦され放免された<ref>『続日本後紀』嘉祥3年3月18日条</ref>。
直名は無罪となったもの、事件後間もない承和14年([[847年]])正月に[[大宰府|大宰少弐]]として地方官に転任する。さらに[[嘉祥]]2年([[849年]])8月には[[豊後国#国司|豊後権守]]に転じ、同年12月には直名が[[謀反]]したとして大宰府より[[朝廷]]に対して報告がなされている<ref>『続日本後紀』嘉祥2年12月13日条</ref>。その後[[流罪]]となるが、[[嘉祥]]3年([[850年]])罪を赦され放免された<ref>『続日本後紀』嘉祥3年3月18日条</ref>。
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== 人物 ==
== 人物 ==
非常に才学があり、[[弁舌]]が人並み以上に優れていた。自分に対して不服の申し立てがあってもこれを抑え込んで、必ず報復するような悪い癖があり、論者にはこのことで憎まれたという。[[善がい訴訟事件|善愷訴訟事件]]において、遂には弁官を除名させるに至ったのは、まさにこの類の事柄であった。<ref>『[[日本文徳天皇実録]]』仁寿3年6月10日条</ref>
非常に才学があり、[[弁舌]]が人並み以上に優れていた。自分に対して不服の申し立てがあってもこれを抑え込んで、必ず報復するような悪い癖があり、論者にはこのことで憎まれたという。[[善愷訴訟事件]]において、遂には弁官を除名させるに至ったのは、まさにこの類の事柄であった。<ref>『[[日本文徳天皇実録]]』仁寿3年6月10日条</ref>


善愷訴訟事件での当初の審理において、[[正躬王]]ら弁官は直名について、国家においては憎むべき奸臣で、家においては欲が深く人の道に背く人物である、と主張したという<ref name="snk" />。
善愷訴訟事件での当初の審理において、[[正躬王]]ら弁官は直名について、国家においては憎むべき奸臣で、家においては欲が深く人の道に背く人物である、と主張したという<ref name="snk" />。

2020年9月14日 (月) 23:04時点における版

 
登美直名
時代 平安時代初期
生誕 延暦11年(792年
死没 仁寿3年6月10日853年7月19日
官位 従五位下豊後権守
主君 嵯峨天皇淳和天皇仁明天皇文徳天皇
氏族 登美真人
父母 父:登美藤津
兄弟 直名、三野、水内、細川、女子四人
島名、厚真
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登美 直名(とみ の ただな)は、平安時代初期の貴族用明天皇の後裔で、従五位下登美藤津の子。官位は従五位下・豊後権守

経歴

弘仁13年(822年主膳監正に任ぜられる。淳和朝では美濃大掾近江大掾大和介と地方官を歴任し、この間の天長4年(827年)に従五位下叙爵している。

承和2年(835年大判事に転じたのち、承和9年(842年散位頭、承和11年(844年少納言と、仁明朝では京官を歴任する。承和12年(845年)直名自身が有力檀越であった法隆寺の僧・善愷から、寺財の不当売却とその利益の不当収取(布22端3丈に相当)を理由に訴えられる。弁官らの審理により当初遠流の判決を受けるが、承和13年(846年)には右少弁伴善男の主張により訴訟は無効とされ、直名は無罪となった(善愷訴訟事件[1]

直名は無罪となったもの、事件後間もない承和14年(847年)正月に大宰少弐として地方官に転任する。さらに嘉祥2年(849年)8月には豊後権守に転じ、同年12月には直名が謀反したとして大宰府より朝廷に対して報告がなされている[2]。その後流罪となるが、嘉祥3年(850年)罪を赦され放免された[3]

仁寿3年(853年)6月10日卒去。享年62。最終官位は前豊後権守従五位下。

人物

非常に才学があり、弁舌が人並み以上に優れていた。自分に対して不服の申し立てがあってもこれを抑え込んで、必ず報復するような悪い癖があり、論者にはこのことで憎まれたという。善愷訴訟事件において、遂には弁官を除名させるに至ったのは、まさにこの類の事柄であった。[4]

善愷訴訟事件での当初の審理において、正躬王ら弁官は直名について、国家においては憎むべき奸臣で、家においては欲が深く人の道に背く人物である、と主張したという[1]

官歴

六国史』による。

系譜

  • 父:登美藤津
  • 母:不詳
  • 生母不明の子女
    • 男子:登美島名[5]
    • 男子:登美厚真[5]

脚注

  1. ^ a b 『続日本後紀』承和13年11月14日条
  2. ^ 『続日本後紀』嘉祥2年12月13日条
  3. ^ 『続日本後紀』嘉祥3年3月18日条
  4. ^ 日本文徳天皇実録』仁寿3年6月10日条
  5. ^ a b 鈴木真年『百家系図稿』巻9,登美真人

参考文献