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2020年9月14日 (月) 23:01時点における版
寇遐 | |
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『改訂 現代支那人名鑑』1928年 | |
プロフィール | |
出生: | 1884年(清光緒10年) |
死去: |
1953年9月6日 中華人民共和国陝西省西安市 |
出身地: | 清陝西省同州府蒲城県 |
職業: | 政治家 |
各種表記 | |
繁体字: | 寇遐 |
簡体字: | 寇遐 |
拼音: | Kòu Xiá |
ラテン字: | K'ou Hsia |
和名表記: | こう か |
発音転記: | コウ シア |
寇 遐(こう か)は、清末、中華民国の政治家。北京政府で農商総長をつとめた。字は勝孚。号は玄疵。
事跡
1906年(光緒32年)、西安師範学堂選科に入学する。在学中に中国同盟会に加入した。1909年(宣統元年)に卒業後、同州中学堂監学となる。その傍らで、陝西省内の革命派の蜂起を支援する秘密活動に従事している。
中華民国成立直後は陝西省臨時議会副議長となり、さらに衆議院議員に選出されている。革命派として、反袁世凱の活動にも従事した。袁死後の第1次国会回復とともに再び衆議院議員に復帰した。
孫文(孫中山)が護法運動を開始すると、これに応じて広州に赴き、国会非常会議議員、大元帥府参議などをつとめた。1922年(民国11年)、第2次国会回復とともに再び北京で衆議院議員となった。しかし、翌年の曹錕賄選に反発して孫の下に戻った。
1924年(民国13年)の第2次奉直戦争の際には、北京政変(首都革命)の発動に参与している。1925年(民国14年)12月、許世英内閣で農商総長に任じられたが、翌年3月、賈徳耀内閣の途中で辞任する。以後は北京に寓居した。
1931年(民国20年)に帰郷し、陝西省政府委員、同省臨時参議会議員、国民政府行政院僑務委員会委員、同賑務委員会委員などをつとめた。金石文研究を好んだことから、1934年(民国23年)に西安金石書画学会を発足させて、その会長となる。また、秦腔(陝西省の地方劇・戯曲)にも造詣が深く、研究書を著している。
中華人民共和国成立後も故郷に留まっている。陝西省人民政府委員などをつとめた。
1953年9月6日、西安にて死去。享年70。
参考文献
- 徐友春主編『民国人物大辞典 増訂版』河北人民出版社、2007年。ISBN 978-7-202-03014-1。
- 劉寿林ほか編『民国職官年表』中華書局、1995年。ISBN 7-101-01320-1。
中華民国(北京政府)
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