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「張政 (孫呉)」の版間の差分

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張政は呉末期の[[夷陵区|西陵]]督であった。
張政は呉末期の[[夷陵区|西陵]]督であった。


[[天紀]]2年([[278年]])、[[西晋]]の[[羊コ|羊祜]]が亡くなると、鎮南大将軍の[[杜預]]を都督荊州諸軍事にに任命した。翌天紀3年([[279年]])、杜預は呉の西陵督の張政と交戦し、これに勝利した。張政は敗戦を恥じて報告しなかったので、杜預はわざと[[孫晧]]のもとに捕虜を帰した。果たして張政は召還され、孫晧は守将を武昌監[[留憲]](劉憲とも)に差し替え、征南将軍[[成璩]]・西陵監[[鄭広]]を増援として派遣した。杜預は張政を追い落とす計略が成功したのを見て、呉はすっかり傾いたと判断した。
[[天紀]]2年([[278年]])、[[西晋]]の[[羊祜]]が亡くなると、鎮南大将軍の[[杜預]]を都督荊州諸軍事にに任命した。翌天紀3年([[279年]])、杜預は呉の西陵督の張政と交戦し、これに勝利した。張政は敗戦を恥じて報告しなかったので、杜預はわざと[[孫晧]]のもとに捕虜を帰した。果たして張政は召還され、孫晧は守将を武昌監[[留憲]](劉憲とも)に差し替え、征南将軍[[成璩]]・西陵監[[鄭広]]を増援として派遣した。杜預は張政を追い落とす計略が成功したのを見て、呉はすっかり傾いたと判断した。


[[呉の滅亡 (三国)|晋の軍が呉の平定に向かって来た]]とき、指揮官に張政の名はないため、そのまま失脚したか死亡したと思われる。
[[呉の滅亡 (三国)|晋の軍が呉の平定に向かって来た]]とき、指揮官に張政の名はないため、そのまま失脚したか死亡したと思われる。

2020年9月14日 (月) 22:55時点における版

張 政(ちょう せい、? - ?)は、中国三国時代武将

生涯

張政は呉末期の西陵督であった。

天紀2年(278年)、西晋羊祜が亡くなると、鎮南大将軍の杜預を都督荊州諸軍事にに任命した。翌天紀3年(279年)、杜預は呉の西陵督の張政と交戦し、これに勝利した。張政は敗戦を恥じて報告しなかったので、杜預はわざと孫晧のもとに捕虜を帰した。果たして張政は召還され、孫晧は守将を武昌監留憲(劉憲とも)に差し替え、征南将軍成璩・西陵監鄭広を増援として派遣した。杜預は張政を追い落とす計略が成功したのを見て、呉はすっかり傾いたと判断した。

晋の軍が呉の平定に向かって来たとき、指揮官に張政の名はないため、そのまま失脚したか死亡したと思われる。

参考文献

脚注