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==生平==
==生平==
張儼は若年時から既に名声を博しており、同郷の[[朱桓]]の子[[朱異]]、[[張敦|張惇]]の子[[張純 (孫呉)|張純]]と友好を結んだ。三人で驃騎将軍[[朱拠]]をたずねた折には、その才を賞賛された<ref>『[[三国志 (歴史書)|三国志]]』呉志朱桓伝が引く『文士伝』:三人各隨其目所見而賦之,皆成而後坐,據大歓悦。</ref>。呉に使えると顕職を歴任し、孫権に『請立太子師傅表』を上表した<ref>『芸術類聚』巻六十</ref>。後に博聞多識をもって大鴻臚に任命された。[[宝鼎]]元年([[266年]])、命令を受け五官中郎将[[丁忠]]とともに[[晋]]への使者となり、[[司馬昭]]を祭る喪事に参列した<ref>『呉録』:使于晋,晧謂儼曰:“今南北通好,以君為有出境之才,故相屈行。”</ref>。張儼は[[洛陽]]に到着した後、[[賈充]]、[[裴秀]]、[[荀勗]]らに難問をもって試されたがこれに屈さなかったという。また[[羊コ|羊祜]]、[[何楨]]らと親交を結んだ<ref>『呉録』:既至,車騎将軍賈充、尚書令裴秀、侍中荀勗等欲傲以所不知而不能屈。尚書僕射羊祜、尚書何楨並結縞帯之好。</ref>。呉の都の武昌への帰還の途中に亡くなった<ref>『三国志』呉志孫晧伝:及還,儼道病死。</ref>。
張儼は若年時から既に名声を博しており、同郷の[[朱桓]]の子[[朱異]]、[[張敦|張惇]]の子[[張純 (孫呉)|張純]]と友好を結んだ。三人で驃騎将軍[[朱拠]]をたずねた折には、その才を賞賛された<ref>『[[三国志 (歴史書)|三国志]]』呉志朱桓伝が引く『文士伝』:三人各隨其目所見而賦之,皆成而後坐,據大歓悦。</ref>。呉に使えると顕職を歴任し、孫権に『請立太子師傅表』を上表した<ref>『芸術類聚』巻六十</ref>。後に博聞多識をもって大鴻臚に任命された。[[宝鼎]]元年([[266年]])、命令を受け五官中郎将[[丁忠]]とともに[[晋]]への使者となり、[[司馬昭]]を祭る喪事に参列した<ref>『呉録』:使于晋,晧謂儼曰:“今南北通好,以君為有出境之才,故相屈行。”</ref>。張儼は[[洛陽]]に到着した後、[[賈充]]、[[裴秀]]、[[荀勗]]らに難問をもって試されたがこれに屈さなかったという。また[[羊祜]]、[[何楨]]らと親交を結んだ<ref>『呉録』:既至,車騎将軍賈充、尚書令裴秀、侍中荀勗等欲傲以所不知而不能屈。尚書僕射羊祜、尚書何楨並結縞帯之好。</ref>。呉の都の武昌への帰還の途中に亡くなった<ref>『三国志』呉志孫晧伝:及還,儼道病死。</ref>。


著作には『黙記』三巻、『張儼集』二巻があり、子の張勃、[[張翰]]らが張儼の死後、善く書き写したため散逸を免れたとされるが現在は失われている。『黙記』は[[裴松之]]が『三国志』の注釈と付けた諸葛亮の『[[出師表|後出師表]]』の出典とされるが、その真贋には議論がある<ref>『後出師表』は偽作か真作かの項目参照。</ref>。
著作には『黙記』三巻、『張儼集』二巻があり、子の張勃、[[張翰]]らが張儼の死後、善く書き写したため散逸を免れたとされるが現在は失われている。『黙記』は[[裴松之]]が『三国志』の注釈と付けた諸葛亮の『[[出師表|後出師表]]』の出典とされるが、その真贋には議論がある<ref>『後出師表』は偽作か真作かの項目参照。</ref>。

2020年9月14日 (月) 22:55時点における版

張儼

大鴻臚
出生 不明
揚州呉郡呉県
死去 宝鼎元年(266年
拼音 Zhang Yan
子節
主君 大帝廃帝景帝末帝
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張 儼(ちょう げん、? - 266年)は、三国時代の政治家、歴史家。字は子節呉郡呉県(現在の江蘇省蘇州市)の人[1]孫晧の時代に九卿のひとつである大鴻臚となった。

生平

張儼は若年時から既に名声を博しており、同郷の朱桓の子朱異張惇の子張純と友好を結んだ。三人で驃騎将軍朱拠をたずねた折には、その才を賞賛された[2]。呉に使えると顕職を歴任し、孫権に『請立太子師傅表』を上表した[3]。後に博聞多識をもって大鴻臚に任命された。宝鼎元年(266年)、命令を受け五官中郎将丁忠とともにへの使者となり、司馬昭を祭る喪事に参列した[4]。張儼は洛陽に到着した後、賈充裴秀荀勗らに難問をもって試されたがこれに屈さなかったという。また羊祜何楨らと親交を結んだ[5]。呉の都の武昌への帰還の途中に亡くなった[6]

著作には『黙記』三巻、『張儼集』二巻があり、子の張勃、張翰らが張儼の死後、善く書き写したため散逸を免れたとされるが現在は失われている。『黙記』は裴松之が『三国志』の注釈と付けた諸葛亮の『後出師表』の出典とされるが、その真贋には議論がある[7]

親族

    • 張勃、著作に『呉録』他多数。
    • 張翰、字は季鷹、東晋の名士、文章数十編が世に伝わった。『晋書』文苑伝に彼の伝がある。

注釈

  1. ^ 呉郡の「張家」は「顧家」「陸家」「朱家」と並んで呉の四姓と称された。『呉録』
  2. ^ 三国志』呉志朱桓伝が引く『文士伝』:三人各隨其目所見而賦之,皆成而後坐,據大歓悦。
  3. ^ 『芸術類聚』巻六十
  4. ^ 『呉録』:使于晋,晧謂儼曰:“今南北通好,以君為有出境之才,故相屈行。”
  5. ^ 『呉録』:既至,車騎将軍賈充、尚書令裴秀、侍中荀勗等欲傲以所不知而不能屈。尚書僕射羊祜、尚書何楨並結縞帯之好。
  6. ^ 『三国志』呉志孫晧伝:及還,儼道病死。
  7. ^ 『後出師表』は偽作か真作かの項目参照。