コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

「陳叔英」の版間の差分

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
削除された内容 追加された内容
m編集の要約なし
Cewbot (会話 | 投稿記録)
m Bot作業依頼: 涿汶涪戢愷异彧などを含む記事の改名に伴うリンク修正依頼 (涪陵郡) - log
タグ: 手動差し戻し
2行目: 2行目:


== 経歴 ==
== 経歴 ==
陳頊と曹淑華のあいだの子として生まれた。[[560年]]([[天嘉 (陳)|天嘉]]元年)、建安侯に封じられた。[[569年]]([[太建]]元年)1月、豫章王に改封され、宣恵将軍・都督[[東揚州]]諸軍事・東揚州[[刺史]]に任じられた。[[571年]](太建3年)、御史中丞の[[袁憲]]による弾劾を受けて免官された。[[573年]](太建5年)1月、平北将軍・[[南豫州]]刺史に転じた。[[579年]](太建11年)6月、鎮前将軍・[[江州]]刺史となった。[[582年]](太建14年)1月、[[後主 (陳)|後主]]が即位すると、征南将軍の位に進んだ。9月、[[開府儀同三司]]の位を加えられた。[[586年]]([[至徳 (陳)|至徳]]元年)1月、中衛大将軍の位を受けた。[[586年]](至徳4年)1月、驃騎大将軍の位に進んだ。[[587年]]([[禎明]]元年)11月、[[司空]]に上った。[[589年]](禎明3年)、[[隋]]軍が[[長江]]を渡ってくると、叔英は知石頭軍戍事として防戦にあたった。まもなく[[建康 (都城)|建康]]台城に入って朝堂に駐屯した。陳の六軍が敗北すると、叔英は隋将の[[韓擒虎]]に降伏した。この年のうちに[[関中]]に入った。[[隋]]の[[大業]]年間に[[フウ陵郡|涪陵郡]][[太守]]となった。
陳頊と曹淑華のあいだの子として生まれた。[[560年]]([[天嘉 (陳)|天嘉]]元年)、建安侯に封じられた。[[569年]]([[太建]]元年)1月、豫章王に改封され、宣恵将軍・都督[[東揚州]]諸軍事・東揚州[[刺史]]に任じられた。[[571年]](太建3年)、御史中丞の[[袁憲]]による弾劾を受けて免官された。[[573年]](太建5年)1月、平北将軍・[[南豫州]]刺史に転じた。[[579年]](太建11年)6月、鎮前将軍・[[江州]]刺史となった。[[582年]](太建14年)1月、[[後主 (陳)|後主]]が即位すると、征南将軍の位に進んだ。9月、[[開府儀同三司]]の位を加えられた。[[586年]]([[至徳 (陳)|至徳]]元年)1月、中衛大将軍の位を受けた。[[586年]](至徳4年)1月、驃騎大将軍の位に進んだ。[[587年]]([[禎明]]元年)11月、[[司空]]に上った。[[589年]](禎明3年)、[[隋]]軍が[[長江]]を渡ってくると、叔英は知石頭軍戍事として防戦にあたった。まもなく[[建康 (都城)|建康]]台城に入って朝堂に駐屯した。陳の六軍が敗北すると、叔英は隋将の[[韓擒虎]]に降伏した。この年のうちに[[関中]]に入った。[[隋]]の[[大業]]年間に[[涪陵郡]][[太守]]となった。


長子の陳弘は、[[583年]]([[至徳 (陳)|至徳]]元年)に豫章国世子となった。
長子の陳弘は、[[583年]]([[至徳 (陳)|至徳]]元年)に豫章国世子となった。

2020年9月14日 (月) 22:48時点における版

陳叔英(ちん しゅくえい、生没年不詳)は、南朝陳皇族。豫章王。宣帝陳頊の三男。は子烈。

経歴

陳頊と曹淑華のあいだの子として生まれた。560年天嘉元年)、建安侯に封じられた。569年太建元年)1月、豫章王に改封され、宣恵将軍・都督東揚州諸軍事・東揚州刺史に任じられた。571年(太建3年)、御史中丞の袁憲による弾劾を受けて免官された。573年(太建5年)1月、平北将軍・南豫州刺史に転じた。579年(太建11年)6月、鎮前将軍・江州刺史となった。582年(太建14年)1月、後主が即位すると、征南将軍の位に進んだ。9月、開府儀同三司の位を加えられた。586年至徳元年)1月、中衛大将軍の位を受けた。586年(至徳4年)1月、驃騎大将軍の位に進んだ。587年禎明元年)11月、司空に上った。589年(禎明3年)、軍が長江を渡ってくると、叔英は知石頭軍戍事として防戦にあたった。まもなく建康台城に入って朝堂に駐屯した。陳の六軍が敗北すると、叔英は隋将の韓擒虎に降伏した。この年のうちに関中に入った。大業年間に涪陵郡太守となった。

長子の陳弘は、583年至徳元年)に豫章国世子となった。

伝記資料