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2020年9月14日 (月) 22:48時点における版
周 楚(しゅう そ、生年不詳 - 太和6年3月23日(371年4月24日))は、中国の東晋の軍人。字は元孫。本貫は汝南郡安成県。廬江郡尋陽県の出身。父は東晋の鎮西将軍周撫。子は東晋の建武将軍周瓊。東晋の益州統治の安定に力を尽くした。
生涯
東晋に仕え、安西将軍桓温の参軍に任じられていた。
347年3月、東晋軍は彭模に至った。その後の方針を議論した結果、桓温は直進して成都を目指すことを決めた。周楚は参軍孫盛とともに彭模に留まり、弱兵とともに輜重を守ることとなった。
鷹揚将軍・犍為郡太守に任じられた。
365年6月、父の周撫が亡くなると、建成公の爵位を嗣ぎ、仮節・監梁益二州諸軍事・益州刺史に任じられた。
11月、東晋に反乱を起こし、都督梁益二州諸軍事・成都王を自称した梁州刺史司馬勲が、剣閣から益州に侵入、涪城を攻めた。守っていた西夷校尉毌丘暐は城を棄てて逃走した。司馬勲の軍は周楚が守る成都を包囲した。これを知った大司馬桓温は、上表して鷹揚将軍朱序を征討都護として救援に向かわせた。
366年5月、周楚と朱序は司馬勲を破り、司馬勲らを捕えて桓温の元へ送った。功により、冠軍将軍に任じられた。
370年9月、成漢の皇帝李勢の子を騙り、聖王[1]を自称した広漢の妖賊李弘[2]、成漢の皇帝李雄の子を騙り、涪城を攻略した隴西の人李高討伐を子の周瓊[3]、孫の梓潼郡太守周虓[4]に命じた。周瓊は李高、周虓は李弘を討ち、反乱を平定した[5]。
371年3月、亡くなり、定と諡された。子の周瓊が後を嗣いだ。