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「劉夫人 (李克用)」の版間の差分

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代北の人。強くて勇敢であり、男勝りな性格であった。武術に優れ、側室や女中たちに騎射を教えた。
代北の人。強くて勇敢であり、男勝りな性格であった。武術に優れ、側室や女中たちに騎射を教えた。


唐の[[中和 (唐)|中和]]4年(884年)6月、李克用が[[黄巣]]に勝利した後、[[ベン州 (河南省)|汴州]]で[[朱全忠]]が酒宴に招いた。しかしその夜、朱全忠が軍を率いて襲撃してきた。一部の将兵が李克用を見捨て逃げ帰り、主君の凶事を知らせた。陳氏はただちに逃げてきた者を斬り、将を呼んで軍をまとめた。この時、同行した[[史敬思]]は戦死したものの、李克用は逃走に成功した。翌日、李克用は激怒して朱全忠を討つべしと叫んだ。陳氏は「今は、あの男も朝廷の命を受けた官です。互いに攻撃するのは理がありません」と諫め、軍を[[晋陽]]に退かせた。
唐の[[中和 (唐)|中和]]4年(884年)6月、李克用が[[黄巣]]に勝利した後、[[汴州]]で[[朱全忠]]が酒宴に招いた。しかしその夜、朱全忠が軍を率いて襲撃してきた。一部の将兵が李克用を見捨て逃げ帰り、主君の凶事を知らせた。陳氏はただちに逃げてきた者を斬り、将を呼んで軍をまとめた。この時、同行した[[史敬思]]は戦死したものの、李克用は逃走に成功した。翌日、李克用は激怒して朱全忠を討つべしと叫んだ。陳氏は「今は、あの男も朝廷の命を受けた官です。互いに攻撃するのは理がありません」と諫め、軍を[[晋陽]]に退かせた。


李克用が晋王となると、秦国夫人に封ぜられた。その後、李克用軍と朱全忠軍は連年にわたって交戦した。[[大順 (唐)|大順]]元年(890年)、朱全忠軍は一度[[太原]]を囲んだ。李克用は弱気になって、ついには[[李存信]]の扇動で北へ逃れようとした。陳氏は李存信を罵り、夫を励まし、[[李存孝]]などの将士を薦めた。李克用は妻の言に従って、危険を脱した。
李克用が晋王となると、秦国夫人に封ぜられた。その後、李克用軍と朱全忠軍は連年にわたって交戦した。[[大順 (唐)|大順]]元年(890年)、朱全忠軍は一度[[太原]]を囲んだ。李克用は弱気になって、ついには[[李存信]]の扇動で北へ逃れようとした。陳氏は李存信を罵り、夫を励まし、[[李存孝]]などの将士を薦めた。李克用は妻の言に従って、危険を脱した。

2020年9月14日 (月) 22:45時点における版

皇太妃陳氏(こうたいひ ちんし、853年 - 925年)は、末から五代十国時代の人物で、後唐の太祖李克用の正妻。荘宗李存勗の嫡母であり、その即位後に皇太妃に封ぜられた。

生涯

代北の人。強くて勇敢であり、男勝りな性格であった。武術に優れ、側室や女中たちに騎射を教えた。

唐の中和4年(884年)6月、李克用が黄巣に勝利した後、汴州朱全忠が酒宴に招いた。しかしその夜、朱全忠が軍を率いて襲撃してきた。一部の将兵が李克用を見捨て逃げ帰り、主君の凶事を知らせた。陳氏はただちに逃げてきた者を斬り、将を呼んで軍をまとめた。この時、同行した史敬思は戦死したものの、李克用は逃走に成功した。翌日、李克用は激怒して朱全忠を討つべしと叫んだ。陳氏は「今は、あの男も朝廷の命を受けた官です。互いに攻撃するのは理がありません」と諫め、軍を晋陽に退かせた。

李克用が晋王となると、秦国夫人に封ぜられた。その後、李克用軍と朱全忠軍は連年にわたって交戦した。大順元年(890年)、朱全忠軍は一度太原を囲んだ。李克用は弱気になって、ついには李存信の扇動で北へ逃れようとした。陳氏は李存信を罵り、夫を励まし、李存孝などの将士を薦めた。李克用は妻の言に従って、危険を脱した。

陳氏は美女であった曹氏を見出すと、夫に側室として薦め、妻妾仲よくした。曹氏は李存勗後唐の荘宗)など3人の男子を産んだ。荘宗が帝位につくと、嫡母の陳氏を皇太妃に追封した(父の側室の扱い)。陳氏は曹氏に「私たちの息子は国を建てた。私の長年の願いが実現した」と言った。李存勗は後梁を滅ぼすと、皇太后曹氏を伴って汴州に遷し、皇太妃陳氏は晋陽に残した。同光3年(925年)5月、皇太妃は寂しく亡くなった。

伝記資料