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「柳粛」の版間の差分

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== 経歴 ==
== 経歴 ==
北周の斉王[[宇文憲]]の下で文学をつとめ、[[武帝 (北周)|武帝]]に才能を見出されて、宣納上士とされた。[[580年]]、[[楊堅]]が北周の[[丞相]]となると、召されて賓曹参軍となった。[[581年]]、隋が建国されると、太子洗馬に任ぜられた。[[陳 (南朝)|南朝陳]]の使者の謝泉が隋に来朝すると、柳粛は学問的見識を買われてその接待にあたり、弁才を賞賛された。太子内舎人となり、太子僕に転じた。太子[[楊勇]]が廃位されると、柳粛も連座して官爵を剥奪され、庶民に落とされた。[[大業]]年間、[[段達]]が柳粛の無罪を主張して[[煬帝]]もこれを認め、柳粛は[[礼部]]侍郎の代行として再び起用された。[[工部 (六部)|工部]]侍郎に転じ、煬帝に親任された。煬帝が[[高句麗]]に親征すると、柳粛は[[タク郡|涿郡]]留守を任された。[[615年]]、死去した。享年は62。
北周の斉王[[宇文憲]]の下で文学をつとめ、[[武帝 (北周)|武帝]]に才能を見出されて、宣納上士とされた。[[580年]]、[[楊堅]]が北周の[[丞相]]となると、召されて賓曹参軍となった。[[581年]]、隋が建国されると、太子洗馬に任ぜられた。[[陳 (南朝)|南朝陳]]の使者の謝泉が隋に来朝すると、柳粛は学問的見識を買われてその接待にあたり、弁才を賞賛された。太子内舎人となり、太子僕に転じた。太子[[楊勇]]が廃位されると、柳粛も連座して官爵を剥奪され、庶民に落とされた。[[大業]]年間、[[段達]]が柳粛の無罪を主張して[[煬帝]]もこれを認め、柳粛は[[礼部]]侍郎の代行として再び起用された。[[工部 (六部)|工部]]侍郎に転じ、煬帝に親任された。煬帝が[[高句麗]]に親征すると、柳粛は[[涿郡]]留守を任された。[[615年]]、死去した。享年は62。


== 伝記資料 ==
== 伝記資料 ==

2020年9月14日 (月) 22:40時点における版

柳 粛(りゅう しゅく、554年 - 615年)は、中国北周からにかけての政治家は匡仁。本貫河東郡解県柳慶の子。柳機の弟。

経歴

北周の斉王宇文憲の下で文学をつとめ、武帝に才能を見出されて、宣納上士とされた。580年楊堅が北周の丞相となると、召されて賓曹参軍となった。581年、隋が建国されると、太子洗馬に任ぜられた。南朝陳の使者の謝泉が隋に来朝すると、柳粛は学問的見識を買われてその接待にあたり、弁才を賞賛された。太子内舎人となり、太子僕に転じた。太子楊勇が廃位されると、柳粛も連座して官爵を剥奪され、庶民に落とされた。大業年間、段達が柳粛の無罪を主張して煬帝もこれを認め、柳粛は礼部侍郎の代行として再び起用された。工部侍郎に転じ、煬帝に親任された。煬帝が高句麗に親征すると、柳粛は涿郡留守を任された。615年、死去した。享年は62。

伝記資料