「郭懷一事件」の版間の差分
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反乱の指導者は[[蔗糖]]業を務めていた[[郭懷一]]だった。彼は中国本土の[[泉州市|泉州]]生まれで、オランダの文献では「五官懐一」('''Gouqua Faijit'''<ref name=Andrade/>または'''Gouqua Faet'''<ref>{{cite book|year=1977|series=台灣叢談|script-title=zh:台灣史蹟研究會彙編|publisher=幼獅文化事業|language=Chinese}}</ref>)として知られている。彼は1652年9月17日に蜂起を計画していたが、密告により計画がオランダに漏れたため<ref>{{cite book|url=https://books.google.com/books?id=Uas3AAAAIAAJ&pg=PA271&dq=%22Castle+Zeelandia%22&lr=&as_brr=0&as_pt=ALLTYPES#PPA271,M1|title=Development and Decline of Fukien Province in the 17th and 18th Centuries|author=Eduard B. Vermeer|year=1990|isbn=978-90-04-09171-9|page=21}}</ref>、蜂起を前倒しして[[竹]]により建築されていた[[赤崁楼|普羅民遮城]]を攻撃した。9月7日の夜、[[竹やり]]を装備した農民たちは城に踏み入れたが、オランダ人は城中最も防御に適した場所であった[[厩舎]]に立てこもり、農民を撃退して被害を数人に留めた<ref name="Andrade" />。 |
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次の朝、120人のオランダ人[[銃士]]が普羅民遮城で立てこもっていたオランダ人を助けにきて、反乱軍を包囲して撃破した<ref name="Andrade" />。行政長官の{{仮リンク|ニコラス・ベーブルグ|en|Nicolas Verburg}}が原住民に使者を送り、援軍を求めると、原住民は数千の大軍を送った。9月11日、[[安平古堡|熱蘭遮城]]に接近していた反乱軍がオランダ=原住民連合軍に遭遇、ヨーロッパ人の装備が遥かに進んでいたこともあってオランダが勝利した<ref>{{cite book|title=Development and Decline of Fukien Province in the 17th and 18th centuries|last=Huber|first=Johannes|editor1-last=Vermeer|editor1-first=E.B|chapter=Chinese Settlers Against the Dutch East India Company: The Rebellion Led by Kuo Huai-i on Taiwan in 1652|date=1990|publisher=Brill|location=Leiden|isbn=9789004091719}}</ref>。 |
2020年9月13日 (日) 06:42時点における版
郭懷一事件 | |||||||
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衝突した勢力 | |||||||
郭懷一の平民軍 |
オランダ東インド会社 台湾原住民 | ||||||
指揮官 | |||||||
郭懷一 | ニコラス・ベーブルグ | ||||||
戦力 | |||||||
1万5千人 |
オランダ軍1千人 台湾人同盟軍5千人 | ||||||
被害者数 | |||||||
死者約4千人 |
オランダ人死者8人 台湾人死者は不明、だたし僅少 |
郭懷一事件(かくかいいちじけん)は1652年におきた、オランダ統治時代の台湾におけるオランダ統治に対する農民反乱。オランダの重税と下級官僚によるゆすりに苦しめられていた農民が蜂起したが、オランダ軍と台湾原住民の同盟軍に鎮圧された。
背景
オランダが台湾における中国の住民に対する課税は農民にとって負担が大きく、長らく不満の元となっていた。猟師の免許を持った人々は主な生産物であった鹿肉の価格下落で生活がさらに苦しくなった。免許の料金が下落する前の鹿肉の価格と連動していたためだった。さらに、中国人にしか課税されず台湾原住民には免除された人頭税とオランダ兵士による汚職が中国人住民を怒らせていた[1]。
反乱
反乱の指導者は蔗糖業を務めていた郭懷一だった。彼は中国本土の泉州生まれで、オランダの文献では「五官懐一」(Gouqua Faijit[1]またはGouqua Faet[2])として知られている。彼は1652年9月17日に蜂起を計画していたが、密告により計画がオランダに漏れたため[3]、蜂起を前倒しして竹により建築されていた普羅民遮城を攻撃した。9月7日の夜、竹やりを装備した農民たちは城に踏み入れたが、オランダ人は城中最も防御に適した場所であった厩舎に立てこもり、農民を撃退して被害を数人に留めた[1]。
次の朝、120人のオランダ人銃士が普羅民遮城で立てこもっていたオランダ人を助けにきて、反乱軍を包囲して撃破した[1]。行政長官のニコラス・ベーブルグが原住民に使者を送り、援軍を求めると、原住民は数千の大軍を送った。9月11日、熱蘭遮城に接近していた反乱軍がオランダ=原住民連合軍に遭遇、ヨーロッパ人の装備が遥かに進んでいたこともあってオランダが勝利した[4]。
その後
反乱から数日間、郭懷一の反乱軍の残党は原住民に殺されるか、出身の村に戻された。郭懷一自身は銃殺ののち斬首にされ、その首は晒しとして吊るされた[1]。5日間の反乱で台湾の中国人人口の10分の1にあたる4千人が殺された。オランダは普羅民遮城を強化し、竹の代わりに煉瓦の壁を建て、また中国人に対する監視を強めたが、反乱の原因であった重税や汚職には対処しなかった。
しかし、オランダに味方した台湾原住民は後に反逆した。フロンティア区域の原住民の村では1650年代にオランダに対する反乱がおきたが、これはオランダの強圧的な統治を原因とする。1652年12月、台北でオランダに対する原住民反乱がおき、オランダ人通訳が処刑され、後の戦闘でさらにオランダ人2人が亡くなったが、塩と鉄の禁輸により原住民は翌年2月に屈服した[5]。
さらに、1661年からのゼーランディア城包囲戦で原住民は国姓爺の中国軍に味方した[6]。国姓爺が恩赦を与えると原住民はその後も味方し、オランダ人を処刑したり、オランダの教科書を捨てたりした[7]。
脚注
- ^ a b c d e Andrade, Tonio (2005). “The Only Bees on Formosa That Give Honey”. How Taiwan Became Chinese: Dutch, Spanish and Han Colonization in the Seventeenth Century. Columbia University Press
- ^ (Chinese). 台灣叢談. 幼獅文化事業. (1977)
- ^ Eduard B. Vermeer (1990). Development and Decline of Fukien Province in the 17th and 18th Centuries. p. 21. ISBN 978-90-04-09171-9
- ^ Huber, Johannes (1990). “Chinese Settlers Against the Dutch East India Company: The Rebellion Led by Kuo Huai-i on Taiwan in 1652”. In Vermeer, E.B. Development and Decline of Fukien Province in the 17th and 18th centuries. Leiden: Brill. ISBN 9789004091719
- ^ Shepherd1993, p. 59.
- ^ Covell, Ralph R. (1998). Pentecost of the Hills in Taiwan: The Christian Faith Among the Original Inhabitants (illustrated ed.). Hope Publishing House. pp. 96–97. ISBN 0932727905 December 10, 2014閲覧。
- ^ Hsin-Hui, Chiu (2008). The Colonial 'civilizing Process' in Dutch Formosa: 1624 - 1662. Volume 10 of TANAP monographs on the history of the Asian-European interaction (illustrated ed.). BRILL. p. 222. ISBN 900416507X December 10, 2014閲覧。