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'''野村 良昌'''(のむら よしまさ、生没年不詳)は、[[江戸時代]]中期の[[薩摩藩]][[鹿児島城]]下の[[武士]]。[[本姓]][[宇多源氏]][[佐々木氏]]。[[通称]]は勘兵衛。[[諱]]は良昌。[[家格]]小番。[[モウソウチク]]を薩摩藩に輸入した薩摩藩側の現場責任者。[[剣術]][[示現流]]の師範[[東郷実昉]]の舅で、[[東郷実乙]]外祖父。藩職は物頭、町奉行を勤める。また始羅郡山田郷[[地頭]]や薩摩郡高城郷地頭を兼務する。2回琉球に渡海し、2回目の物頭時代に[[琉球王国]]在番を命じられて琉球に行くが、この時に島津吉貴よりモウソウチクの輸入を命じられ、[[清]]からモウソウチク20株を輸入する。鹿児島に戻ると[[仙巌園]]にモウソウチクを献じる。 |
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2020年9月11日 (金) 22:09時点における版
野村 良昌(のむら よしまさ、生没年不詳)は、江戸時代中期の薩摩藩鹿児島城下の武士。本姓宇多源氏佐々木氏。通称は勘兵衛。諱は良昌。家格小番。モウソウチクを薩摩藩に輸入した薩摩藩側の現場責任者。剣術示現流の師範東郷実昉の舅で、東郷実乙外祖父。藩職は物頭、町奉行を勤める。また始羅郡山田郷地頭や薩摩郡高城郷地頭を兼務する。2回琉球に渡海し、2回目の物頭時代に琉球王国在番を命じられて琉球に行くが、この時に島津吉貴よりモウソウチクの輸入を命じられ、清からモウソウチク20株を輸入する。鹿児島に戻ると仙巌園にモウソウチクを献じる。
年譜
- 正徳4年(1714年):相良権大夫とともに琉球に派遣される。
- 享保11年1月11日;始羅郡山田郷地頭に就任。
- 元文元年(1736年):当時、物頭職を勤め、物頭として琉球在番を命じられ、琉球渡海。このときモウソウチクの輸入を命じられ、5月にモウソウチク20株を清より琉球に輸入する。
- 元文3年(1738年):在番の任期切れにより帰国し、吉貴のいる仙巌園にモウソウチクを献上する。同年7月1日に町奉行及び川内高城地頭に就任する。なお、当時の町奉行の同僚に示現流高弟の薬丸兼慶がいた。
- 元文5年(1740年)2月15日:役料90石をもらう。[1]
- 延享元年(1744年)6月5日:高城地頭を辞任する。
子孫
宝暦6年(1756年)の「松平又三郎家中分限帳」の馬方に「高115石 野村勘兵衛」とあるが、これは良昌の後嗣と思われる。また、「奄美史料集成」では安永6年(1777年)の沖永良部島代官は「野村勘兵衛」であるという。
関連史跡
「鹿児島市史III」の『鹿児島市の金石文』によると、鹿児島市坂元町催馬楽公卿屋敷跡に「野村勘兵衛良昌造立石祠」があるという。
脚注
- ^ なお、「職掌紀原」では正徳2年以降、高150石以下の者に役料100石支給されるようになったとある。また、「薩藩政要録」では高150石以下に役料100石支給するが、新役については90石支給するとある。この事から、元文5年当時の野村家が石高150石以下であったことが分かる。なお、同じ日に同僚の薬丸兼慶も90石もらっている。
参考文献
- 「鹿児島市史III」
- 「鹿児島県史料集 旧記雑録拾遺 伊地知季安著作史料集」の『南聘紀考 下』
- 渡辺正「鹿児島市漢文碑選」
- 「鹿児島県史料集 旧記雑録拾遺 諸氏系譜1」の『諸郷地頭系図』