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「伊集院俊方」の版間の差分

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兄の[[東郷位照]]と実勝が家督争いをきっかけにした不祥事のために遠島となり、その上、末弟の実賢が示現流を皆伝していなかったこともあり、示現流の弟子たちは東郷家の伝承が絶えることを恐れて、東郷実満に願い出て俊方に皆伝することを求めた。これは実満の本意ではなかったが、俊方に四段目を伝え、皆伝とした。
兄の[[東郷位照]]と実勝が家督争いをきっかけにした不祥事のために遠島となり、その上、末弟の実賢が示現流を皆伝していなかったこともあり、示現流の弟子たちは東郷家の伝承が絶えることを恐れて、東郷実満に願い出て俊方に皆伝することを求めた。これは実満の本意ではなかったが、俊方に四段目を伝え、皆伝とした。


実満の死後、宗家となった[[東郷実はる|実昉]]は実満から伝えられていない残りの打を俊方より伝授された。
実満の死後、宗家となった[[東郷実|実昉]]は実満から伝えられていない残りの打を俊方より伝授された。


東郷家の示現流の技術を絶やさず次代宗家に伝える役目を果たしたが、早世した。[[法号]]は大雲全海居士。
東郷家の示現流の技術を絶やさず次代宗家に伝える役目を果たしたが、早世した。[[法号]]は大雲全海居士。

2020年9月11日 (金) 22:09時点における版

伊集院 俊方(いじゅういん としかた、宝永3年5月24日1706年7月4日) - 寛保元年8月13日1741年9月22日))は、江戸時代薩摩藩士。通称ははじめ後藤左衛門[1]、後藤兵衛[2]、後に平六。は俊方。示現流四代目の東郷実満の三男で、実勝実賢の同母弟にあたる[3]

根白坂の戦いで戦死した[4]伊集院日向忠兼の子孫である伊集院為兵衛俊陳[5]の養子となった。

事績

兄の東郷位照と実勝が家督争いをきっかけにした不祥事のために遠島となり、その上、末弟の実賢が示現流を皆伝していなかったこともあり、示現流の弟子たちは東郷家の伝承が絶えることを恐れて、東郷実満に願い出て俊方に皆伝することを求めた。これは実満の本意ではなかったが、俊方に四段目を伝え、皆伝とした。

実満の死後、宗家となった実昉は実満から伝えられていない残りの打を俊方より伝授された。

東郷家の示現流の技術を絶やさず次代宗家に伝える役目を果たしたが、早世した。法号は大雲全海居士。

脚注

  1. ^ 「東郷氏支族系図」
  2. ^ 「東郷氏支族系図」及び久保之英の「示現流聞書喫緊録附録系図」
  3. ^ 久保之英「示現流聞書喫緊録附録系図」。なお、「東郷氏支族系図」では異母弟。しかしながら、実満の先妻の死去年について具体的に記した資料がなく、詳細は不明。
  4. ^ 「鹿児島県史料集 旧期雑録拾遺 伊地知季安著作集六」の『御家忠死略称』参照
  5. ^ 「鹿児島県史料集 旧期雑録拾遺 諸氏系図1」

参考文献

  • 鹿児島県史料集(34) 示現流関係資料、鹿児島県史料刊行会、平成6年
  • 本田親礼「平姓東郷氏支族系図」天明2年(1782年