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2020年9月11日 (金) 22:08時点における版
智周(ちしゅう、668年 - 723年)は、中国唐代の高僧。法相宗の第三祖ともされる。江蘇の泗州の出身である。俗姓は徐氏。濮陽大師(ぼくようだいし)と尊称される。
主な著作
- 『成唯識論演秘』(7巻 - 唯識三箇疏の一つ)
- 『法華經玄贊攝釋』(4巻)
- 『梵網菩薩戒本疏』(5巻)
- 『成唯識論了義燈記』(2巻)
- 『大乗法苑義林章決擇記』(4巻)
弟子
658年(斉明天皇4年)、入唐した日本の僧である智通と智達は、玄奘および智周に師事して法相を修め、帰国して法相宗を広めた。
703年、新羅の出身の僧の智鳳は智雄、智鸞とともに入唐し、智周に師事して唯識を学んだ。
717年、日本の僧玄昉、遣唐使留学僧として入唐し、智周に師事して法相を修めた。在唐して学ぶこと18年。
外部リンク
- 濮陽大師画像(興福寺蔵)
- 法相曼荼羅図(興福寺蔵) (智周が描かれている)