「春日若宮社 (奈良市中辻町)」の版間の差分
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『[[村井古道#奈良坊目拙解|奈良坊目拙解]]』に「春日神社 在肘塚松樹本」とある<ref name="shishi" />。この小祠が[[宝永]]3年([[1706年]])に焼失したが、その際[[御神体|御神軀]]である圓器は松樹の上に飛び上がり難を逃れたという<ref name="shishi" />。人々これを奇しきこととして、同年小祠を造営して遷座したことなどが記されている<ref name="sekkai">奈良坊目拙解</ref><ref name="shishi" />。 |
『[[村井古道#奈良坊目拙解|奈良坊目拙解]]』に「春日神社 在肘塚松樹本」とある<ref name="shishi" />。この小祠が[[宝永]]3年([[1706年]])に焼失したが、その際[[御神体|御神軀]]である圓器は松樹の上に飛び上がり難を逃れたという<ref name="shishi" />。人々これを奇しきこととして、同年小祠を造営して遷座したことなどが記されている<ref name="sekkai">奈良坊目拙解</ref><ref name="shishi" />。 |
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一説には、[[ |
一説には、[[玄昉]]塚が同所にあり、その霊を祀っていたのが、後に春日大明神と呼ぶようになったともいうが、その実はわからない、とある<ref>平城坊目考</ref><ref name="shishi" />。玄昉の[[筑紫国]]での憤死の際、遺骸が飛来し、肘(かいな)が落ちたところに作った塚を肘塚(かいなづか)といい、隣町の肘塚町の由来ともなっているが、その肘塚は正しくは中辻町西側会所の裏の路傍にあるという<ref>『日本歴史地名大系. 第30巻 (奈良県の地名)』 ([[平凡社]] 1981年) p.515</ref><ref name="sekkai" />。この塚の伝説に付会して記されたものであろう<ref name="shishi" />。 |
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== 出典 == |
== 出典 == |
2020年9月11日 (金) 22:08時点における版
春日若宮社 | |
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春日若宮社 | |
所在地 | 奈良県奈良市中辻町 |
位置 | 北緯34度40分19.70秒 東経135度49分49.63秒 / 北緯34.6721389度 東経135.8304528度座標: 北緯34度40分19.70秒 東経135度49分49.63秒 / 北緯34.6721389度 東経135.8304528度 |
主祭神 | 天忍雲根命 |
本殿の様式 | 春日造 |
地図 |
春日若宮社(かすがわかみやしゃ)は、奈良県奈良市中辻町にある神社。春日造の小祠に覆屋がある[1]。手前に天保12年(1841年)と嘉永2年(1849年)の石灯籠がある[1]。
概要
『奈良坊目拙解』に「春日神社 在肘塚松樹本」とある[1]。この小祠が宝永3年(1706年)に焼失したが、その際御神軀である圓器は松樹の上に飛び上がり難を逃れたという[1]。人々これを奇しきこととして、同年小祠を造営して遷座したことなどが記されている[2][1]。
一説には、玄昉塚が同所にあり、その霊を祀っていたのが、後に春日大明神と呼ぶようになったともいうが、その実はわからない、とある[3][1]。玄昉の筑紫国での憤死の際、遺骸が飛来し、肘(かいな)が落ちたところに作った塚を肘塚(かいなづか)といい、隣町の肘塚町の由来ともなっているが、その肘塚は正しくは中辻町西側会所の裏の路傍にあるという[4][2]。この塚の伝説に付会して記されたものであろう[1]。
出典
- ^ a b c d e f g h 奈良市史編集審議会編『奈良市史 社寺編』、吉川弘文館、1985、p.147
- ^ a b 奈良坊目拙解
- ^ 平城坊目考
- ^ 『日本歴史地名大系. 第30巻 (奈良県の地名)』 (平凡社 1981年) p.515