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「慈訓」の版間の差分

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'''慈訓'''(じくん・じきん、[[持統天皇]]5年([[691年]])- [[宝亀]]8年([[777年]]))は、[[奈良時代]]の奈良[[興福寺]]の[[僧]]。俗姓は船氏。[[河内国]]の出身。
'''慈訓'''(じくん・じきん、[[持統天皇]]5年([[691年]])- [[宝亀]]8年([[777年]]))は、[[奈良時代]]の奈良[[興福寺]]の[[僧]]。俗姓は船氏。[[河内国]]の出身。


興福寺の[[玄ボウ|玄昉]]、[[元興寺]]の[[良敏]]に[[法相]][[唯識]]を学び、[[審祥]]から華厳を学んだ。[[740年]]([[天平]]12年)審祥による[[華厳経]]の法会では副講師をつとめ、同14年([[742年]])には講師となった。[[755年]]([[天平勝宝]]7年)には宮中講師となる。翌[[756年]](天平勝宝8年)[[聖武天皇]]が病気となった際、[[良弁]]・[[安寛]]とともに看病禅師・華厳講師をつとめ、その功により少僧都に任じられた。藤原仲麻呂政権下では仏教政策の中心者として活躍し、[[760年]]([[天平宝字]]4年)良弁らとともに僧位制度の改正を奏上している。その後[[道鏡]]が現れると[[763年]](天平宝字7年)僧綱を解任されたが、道鏡が失脚した[[770年]](宝亀元年)には少僧都に復帰している。
興福寺の[[玄昉]]、[[元興寺]]の[[良敏]]に[[法相]][[唯識]]を学び、[[審祥]]から華厳を学んだ。[[740年]]([[天平]]12年)審祥による[[華厳経]]の法会では副講師をつとめ、同14年([[742年]])には講師となった。[[755年]]([[天平勝宝]]7年)には宮中講師となる。翌[[756年]](天平勝宝8年)[[聖武天皇]]が病気となった際、[[良弁]]・[[安寛]]とともに看病禅師・華厳講師をつとめ、その功により少僧都に任じられた。藤原仲麻呂政権下では仏教政策の中心者として活躍し、[[760年]]([[天平宝字]]4年)良弁らとともに僧位制度の改正を奏上している。その後[[道鏡]]が現れると[[763年]](天平宝字7年)僧綱を解任されたが、道鏡が失脚した[[770年]](宝亀元年)には少僧都に復帰している。


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2020年9月11日 (金) 22:06時点における版

慈訓(じくん・じきん、持統天皇5年(691年)- 宝亀8年(777年))は、奈良時代の奈良興福寺。俗姓は船氏。河内国の出身。

興福寺の玄昉元興寺良敏法相唯識を学び、審祥から華厳を学んだ。740年天平12年)審祥による華厳経の法会では副講師をつとめ、同14年(742年)には講師となった。755年天平勝宝7年)には宮中講師となる。翌756年(天平勝宝8年)聖武天皇が病気となった際、良弁安寛とともに看病禅師・華厳講師をつとめ、その功により少僧都に任じられた。藤原仲麻呂政権下では仏教政策の中心者として活躍し、760年天平宝字4年)良弁らとともに僧位制度の改正を奏上している。その後道鏡が現れると763年(天平宝字7年)僧綱を解任されたが、道鏡が失脚した770年(宝亀元年)には少僧都に復帰している。