「郭図」の版間の差分
m Bot作業依頼: 「ワ・シン」→「龢・諶」の改名に伴うリンク修正依頼 (荀諶) - log |
|||
45行目: | 45行目: | ||
建安7年([[202年]])に袁紹が死去すると、郭図は辛評と共に長男[[袁譚]]を後継者に推戴した。これに対し、郭図・辛評と不仲であった審配・逢紀が三男[[袁尚]]を推戴したため、これが袁氏の内紛につながってしまう。翌8年([[203年]])、郭図と辛評は「袁譚が後継者になれなかったのは審配の差し金である」と袁譚を後押し、袁尚に先制攻撃を仕掛けさせた。しかし袁尚の反撃に敗北して、[[平原]]に追い込まれ苦境に陥った。 |
建安7年([[202年]])に袁紹が死去すると、郭図は辛評と共に長男[[袁譚]]を後継者に推戴した。これに対し、郭図・辛評と不仲であった審配・逢紀が三男[[袁尚]]を推戴したため、これが袁氏の内紛につながってしまう。翌8年([[203年]])、郭図と辛評は「袁譚が後継者になれなかったのは審配の差し金である」と袁譚を後押し、袁尚に先制攻撃を仕掛けさせた。しかし袁尚の反撃に敗北して、[[平原]]に追い込まれ苦境に陥った。 |
||
このため郭図は袁譚に、「曹操と同盟を結び、曹操と袁尚が戦っている隙に勢力を拡大します。袁尚が敗北すればその残党を吸収でき、曹操は遠征軍で兵糧が続かず一度帰還するので、そうなれば曹操と対峙できます」と進言した。袁譚は拒否したが、後になって受け入れた。袁譚は郭図が推薦した[[ |
このため郭図は袁譚に、「曹操と同盟を結び、曹操と袁尚が戦っている隙に勢力を拡大します。袁尚が敗北すればその残党を吸収でき、曹操は遠征軍で兵糧が続かず一度帰還するので、そうなれば曹操と対峙できます」と進言した。袁譚は拒否したが、後になって受け入れた。袁譚は郭図が推薦した[[辛毗]]を使者として派遣し、曹操と同盟を結んだ。曹操は袁尚を攻撃し、[[鄴]]を攻め落とし審配を処刑した<ref>『三国志』魏書袁紹伝注に引く『[[漢晋春秋]]』によると、後継者争いが激化し、曹操の河北進攻が強まった時、審配は袁譚に信書を送り、郭図の誅殺を求めたが、袁譚に拒否されている。『三国志』魏書袁紹伝注に引く『[[魏略|典略]]』によると、袁譚は審配の信書を読んで涙したが、実質的に影響力のあった郭図に逆らうことができなかったとされる。</ref>。 |
||
曹操と袁尚が戦っている隙に、袁譚は冀州諸郡を次々と攻略し、袁尚の残党を吸収するなど、郭図の進言通りに勢力を盛り返した。しかし、それが原因で曹操から盟約違反と非難され、両軍は再び交戦することになった。建安10年(205年)春、袁譚と郭図は南皮に追い込まれて包囲をうけた。袁譚は出撃して曹操軍を攻撃して大いに怯ませるが、最終的に敗北し、郭図は袁譚と共に殺された。『後漢書』袁紹伝によると、この時捕まった郭図の妻子も一緒に処刑されたという。 |
曹操と袁尚が戦っている隙に、袁譚は冀州諸郡を次々と攻略し、袁尚の残党を吸収するなど、郭図の進言通りに勢力を盛り返した。しかし、それが原因で曹操から盟約違反と非難され、両軍は再び交戦することになった。建安10年(205年)春、袁譚と郭図は南皮に追い込まれて包囲をうけた。袁譚は出撃して曹操軍を攻撃して大いに怯ませるが、最終的に敗北し、郭図は袁譚と共に殺された。『後漢書』袁紹伝によると、この時捕まった郭図の妻子も一緒に処刑されたという。 |
2020年9月11日 (金) 21:49時点における版
郭図 | |
---|---|
後漢 都督 | |
出生 |
生年不詳 豫州潁川郡 |
死去 |
建安10年(205年) 冀州勃海郡南皮県 |
拼音 | Guō Tú |
字 | 公則 |
主君 | 袁紹→袁譚 |
郭 図(かく と、? - 205年)は、中国後漢時代末期の政治家、武将。字は公則[1]。豫州潁川郡の人で、一族と思しき者に郭嘉・郭援か。
正史の事跡
初期の事跡
潁川郡の計吏であったが、太守の陰脩から荀彧・荀攸・鍾繇らと共に官吏として推挙され、当時の朝廷を輝かせた[2]。その後、同郡の荀諶・辛評らと共に袁紹に仕えた。同郡の郭嘉は袁紹から去る時、辛評と郭図に袁紹の欠点を告げたという。
初平2年(191年)、郭図は荀諶・張導・高幹らと共に韓馥を説得し、冀州を袁紹に譲らせた。
興平2年(195年)、沮授が献帝を鄴に迎えるよう進言すると、郭図は淳于瓊と共に反対した[3]。袁紹は郭図を使者として献帝の下へ派遣し、帰還した郭図は献帝を迎えるよう袁紹に勧めたが、袁紹は受け入れなかった[4]。もともと献帝が即位したことが袁紹の本意ではなく、そのため結局見送られることになったという[5]。
建安4年(199年)、沮授と田豊が、曹操と対抗する上で持久戦略の採用を主張したのに対し、郭図は審配と共に短期決戦戦略の採用を主張した。すると袁紹は郭図・審配を支持した。さらに郭図が、監軍(袁紹軍総司令官の地位に当たる)の地位に在った沮授について、その勢威が強大すぎると袁紹に讒言したため、監軍の地位・権限は三都督へと三分割され、沮授・淳于瓊・郭図の3人が都督に任命されることとなった。
官渡の戦い
建安5年(200年)2月、官渡の戦いが始まると、郭図は淳于瓊・顔良と共に白馬に駐留する劉延を攻撃した。しかし曹操軍の荀攸の計略により、顔良・文醜の両将を喪失するなど苦戦した。沮授が病気を口実に黄河を渡ろうとしなったので、袁紹はこれを恨んで沮授の兵を郭図に編入した。
同年10月、袁紹は淳于瓊に命じて烏巣で兵糧を守備させていたが、曹操は許攸からこの情報を知ると烏巣急襲を図った。張郃は「曹操の軍勢は強いので必ず淳于瓊を破りますが、そうなったらお終いです。急いで救援すべきです」と進言したが、郭図は反対して「曹操軍の本陣を攻撃すれば、曹操は引き返すでしょう。そうすれば救援せずとも解決します」と主張した。張郃は「曹操軍の本陣は堅固で陥落させることはできません」と反論した。結局袁紹は両方の意見を中途半端に採用し、軽騎兵によって烏巣を救援させ、張郃と高覧には重装兵を率いさせ曹洪が守る本陣を攻撃させた。しかし烏巣への救援は間に合わず、淳于瓊らは曹操軍に撃ち破られ、烏巣の兵糧庫も破壊されてしまった。
『三国志』魏書張郃伝によれば、このとき郭図が責任追及を恐れて張郃のことを讒言したため、張郃は止む無く曹操に降伏することになったという。しかし『三国志』魏書武帝紀や袁紹伝によれば、張郃らが淳于瓊の敗北を聞いて降伏したため、袁紹軍は総崩れになったとある。裴松之が張郃伝の注で指摘するように、張郃伝と他の伝では時系列に矛盾が生じている。『三国志』魏書荀攸伝では、張郃らの降伏を怪しむ曹洪に、荀攸は「張郃は自分の計略が採用されなかった事を怒って降伏したのです。あなたはどうして疑うのです」と言っている。
この敗戦で、審配の子二人が曹操軍に捕らえられた。孟岱・蒋奇・郭図・辛評は、審配の勢威が強大すぎること、子の状況から反乱しかねないことを主張した。このため審配は失脚し、袁紹は孟岱を監軍として鄴を守らせた。後に審配は逢紀の弁護により復権した。
袁氏内紛と最期
建安7年(202年)に袁紹が死去すると、郭図は辛評と共に長男袁譚を後継者に推戴した。これに対し、郭図・辛評と不仲であった審配・逢紀が三男袁尚を推戴したため、これが袁氏の内紛につながってしまう。翌8年(203年)、郭図と辛評は「袁譚が後継者になれなかったのは審配の差し金である」と袁譚を後押し、袁尚に先制攻撃を仕掛けさせた。しかし袁尚の反撃に敗北して、平原に追い込まれ苦境に陥った。
このため郭図は袁譚に、「曹操と同盟を結び、曹操と袁尚が戦っている隙に勢力を拡大します。袁尚が敗北すればその残党を吸収でき、曹操は遠征軍で兵糧が続かず一度帰還するので、そうなれば曹操と対峙できます」と進言した。袁譚は拒否したが、後になって受け入れた。袁譚は郭図が推薦した辛毗を使者として派遣し、曹操と同盟を結んだ。曹操は袁尚を攻撃し、鄴を攻め落とし審配を処刑した[6]。
曹操と袁尚が戦っている隙に、袁譚は冀州諸郡を次々と攻略し、袁尚の残党を吸収するなど、郭図の進言通りに勢力を盛り返した。しかし、それが原因で曹操から盟約違反と非難され、両軍は再び交戦することになった。建安10年(205年)春、袁譚と郭図は南皮に追い込まれて包囲をうけた。袁譚は出撃して曹操軍を攻撃して大いに怯ませるが、最終的に敗北し、郭図は袁譚と共に殺された。『後漢書』袁紹伝によると、この時捕まった郭図の妻子も一緒に処刑されたという。
内紛における郭図
審配が忠義を尽くして壮絶な最期を遂げたことと、官渡の戦いにおける郭図の所業の悪さが原因で、一般には袁氏内紛でも郭図が悪者とされがちである。
しかし、袁紹による明確な後継者指名がなかったにもかかわらず、審配らは袁紹の生前の寵愛を理由に袁尚を推し、『後漢書』袁紹伝によれば袁紹の遺命まで偽造したとされる。また同伝によれば、衆目は年長の袁譚後継支持であったとしている。
もっとも、その後の対応では、郭図も審配憎しで袁氏兄弟の対立を煽っており、袁譚に袁尚への先制攻撃を嗾けるなど、依然として問題行動が多かった。
『後漢書』袁紹伝では、露骨に名指しで書かれている。荊州の劉表が、袁氏内紛に際し王粲に和解の手紙を書かせたが、そこには「変事は辛評・郭図より起こされ、災禍は同胞にもたらされたと聞いております」と記されている。また審配も袁譚に手紙を書き、そこにも「どうして凶悪な臣下郭図などに蛇足を描かせ、ねじ曲がった言葉で媚びへつらわせ、ご親好を混乱させるのですか」と記している。
物語中の郭図
小説『三国志演義』では無能な参謀として描かれており、袁氏を衰亡させたように扱われている。
官渡の戦いの前哨戦で、関羽に文醜を討ち取られた際には、劉備を処刑するよう審配と共に袁紹に進言するが、劉備に巧言で逃れられている。また、劉備が劉表の下へ向かうと申し出ると、それを阻むよう袁紹に諫止したが、容れられていない。しかし結局、劉備は戻って来なかったため、袁紹がこれを討伐しようとすると、それよりも孫策と同盟して曹操を討つよう進言し、受け入れられている。
その後の官渡戦や袁氏内紛については、史実とほぼ同様の展開である。ただ、南皮の戦いでは楽進に弓で射られ、城の堀に転落して死んだことになっている。