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10月、[[東晋]]の[[泰山郡]]太守[[諸葛攸]]が[[東郡]]を攻撃し、[[武陽郡|武陽]]へ侵入した。叔父の[[太宰]][[慕容恪]]が迎撃に向かうと、慕容臧もまたこれに従軍した。前燕軍は諸葛攸を敗走させると、そのまま軍を進めて[[河南]]を攻略し、守宰を置いて帰還した。 |
2020年9月11日 (金) 21:41時点における版
慕容 臧(ぼよう ぞう、生没年不詳)は、五胡十六国時代の前燕の皇族。昌黎郡棘城県の人。2代君主慕容儁の長男であり、弟に3代君主慕容暐を始め、慕容曄、慕容亮、慕容温、慕容渉、慕容泓、慕容沖が、妹に清河公主がいる。『資治通鑑』では慕容咸とも記載される。
生涯
慕容儁の長男であったが、庶長子であったので後継に立てられなかった。
354年4月、楽安王に封じられた。やがて撫軍にも任じられている。
358年9月、慕容儁の命により、濮に割拠する李歴討伐に向かった。慕容臧は李歴を撃破し、李歴を滎陽に敗走させてその配下を降伏させた。
10月、東晋の泰山郡太守諸葛攸が東郡を攻撃し、武陽へ侵入した。叔父の太宰慕容恪が迎撃に向かうと、慕容臧もまたこれに従軍した。前燕軍は諸葛攸を敗走させると、そのまま軍を進めて河南を攻略し、守宰を置いて帰還した。
367年5月、慕容恪が病により重篤に陥ると、慕容臧を呼び出して「今、南には晋がおり、西には秦がいる。二国とも我が国を狙っており、我が国が隙を作れば、すぐにでも襲いかかって来るだろう。そこで、国の興廃は宰相にかかっている。中でも大司馬は、六軍を統率する重要な地位であり、それに見合う人物を得なければならない。私が死んだ後は、おそらくお前か慕容沖が大司馬に推されるだろう。しかし、お前たちは才覚があり明敏ではあるが、いかんせんまだ若く、多難の時節には力不足だ。呉王の慕容垂は天資の英傑であり、その知略は世を超絶している。もしもお前たちが、大司馬の地位を彼奴に譲るならば、必ず四海を統一できる。ましてや外敵など、恐るるに足らん。よいか、身を慎め。利に溺れて害を忘れてはならん。ましてや、国家を忘れてはならんぞ」と遺し、間もなく亡くなった。
369年4月、東晋の大司馬桓温が前燕へ侵攻した。6月、慕容暐の命により、慕容臧はこれを迎撃したが、返り討ちに遭った。その為、慕容臧は散騎常侍李鳳を前秦へ派遣して、救援を求めた。7月、慕容臧は更迭され、慕容垂が総大将となった。
12月、前秦の王猛が洛州刺史慕容筑の守る洛陽に攻め込んだ。370年1月、慕容臧は衛大将軍に任じられ、精鋭10万を率いて洛陽救援に向かった。慕容臧は新楽に城を築き、石門において前秦兵を撃破し、将軍楊猛を捕らえた。この動きを察知した王猛は梁成らに迎撃を命じ、精鋭1万を与えて急行させた。慕容臧は滎陽まで進んでいたが、王猛軍の到来を予期していなかったので、備えをしておらず大敗を喫した。
370年11月、前秦の攻勢により鄴が陥落すると、慕容臧は慕容暐を護衛しながら城を脱出し、共に龍城へ逃亡を図った。慕容暐はやがて前秦軍に捕縛されたが、慕容臧の動向は不明である。