「虎牢関」の版間の差分
表示
削除された内容 追加された内容
編集の要約なし |
|||
1行目: | 1行目: | ||
'''虎牢関'''(ころうかん)は、[[中国]]の[[秦]]の[[荘襄王 (秦)|荘襄王]]から現在の[[河南省]][[鄭州市]][[ |
'''虎牢関'''(ころうかん)は、[[中国]]の[[秦]]の[[荘襄王 (秦)|荘襄王]]から現在の[[河南省]][[鄭州市]][[滎陽市]]汜水鎮の西南部に置かれた関所。[[洛陽]]東辺を扼する要衝であった。「虎牢」という地名は、[[周]]の[[穆王 (周)|穆王]]がこの地で虎を飼っていたことに由来する<ref>『[[穆天子伝]]』に「七萃之士高奔戎請生擒虎、必全之、乃生搏虎而献之、天子命為柙、而畜之東虢、是曰虎牢」という。</ref>。[[春秋時代]]に[[晋 (春秋)|晋]]を中心とする諸侯が[[鄭]]のために城を築いたとされる<ref>『[[春秋左氏伝]]』襄公2年に「遂城虎牢、鄭人乃成」とある。</ref>。この地は険しく防衛に適していたため、歴代王朝はこの地に城塞を建設した。また、古代から数々の戦いの舞台となり、[[唐]]の[[李世民]]と[[竇建徳]]が決戦した<ref>『新唐書』高祖本紀武徳四年の条に「五月壬戌、秦王世民敗竇建徳于虎牢、執之」という。</ref>ことでも知られる。[[漢|漢代]]においては'''成皋関'''(せいこうかん)と称され、[[後漢]]末においては'''旋門関'''(せんもんかん)と称された。また唐代においては、高祖[[李淵]]の祖父である[[李虎]]の[[避諱|諱を避けて]]{{読み仮名|'''武牢関'''|ぶろうかん}}とも称された。[[明|明代]]においては'''古崤関'''(ここうかん)と称された。 |
||
『[[三国志演義]]』では、[[191年]]に[[袁紹]]率いる反董卓連合と[[董卓]]軍の間で行なわれた[[陽人の戦い#三国志演義における虎牢関の戦い|虎牢関の戦い]]が有名であるが、[[正史]]における最古の関所の記事は『[[新唐書]]』であり<ref>『新唐書』武宗本紀会昌五年の条に「十月、作昭武廟于虎牢関」とあるのが初出。</ref>、後漢時代には関所ではなく城が置かれていたようである。 |
『[[三国志演義]]』では、[[191年]]に[[袁紹]]率いる反董卓連合と[[董卓]]軍の間で行なわれた[[陽人の戦い#三国志演義における虎牢関の戦い|虎牢関の戦い]]が有名であるが、[[正史]]における最古の関所の記事は『[[新唐書]]』であり<ref>『新唐書』武宗本紀会昌五年の条に「十月、作昭武廟于虎牢関」とあるのが初出。</ref>、後漢時代には関所ではなく城が置かれていたようである。 |
2020年9月11日 (金) 21:32時点における版
虎牢関(ころうかん)は、中国の秦の荘襄王から現在の河南省鄭州市滎陽市汜水鎮の西南部に置かれた関所。洛陽東辺を扼する要衝であった。「虎牢」という地名は、周の穆王がこの地で虎を飼っていたことに由来する[1]。春秋時代に晋を中心とする諸侯が鄭のために城を築いたとされる[2]。この地は険しく防衛に適していたため、歴代王朝はこの地に城塞を建設した。また、古代から数々の戦いの舞台となり、唐の李世民と竇建徳が決戦した[3]ことでも知られる。漢代においては成皋関(せいこうかん)と称され、後漢末においては旋門関(せんもんかん)と称された。また唐代においては、高祖李淵の祖父である李虎の諱を避けて
『三国志演義』では、191年に袁紹率いる反董卓連合と董卓軍の間で行なわれた虎牢関の戦いが有名であるが、正史における最古の関所の記事は『新唐書』であり[4]、後漢時代には関所ではなく城が置かれていたようである。
なお、虎牢関は