コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

「潘起亮」の版間の差分

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
削除された内容 追加された内容
編集の要約なし
Cewbot (会話 | 投稿記録)
m Bot作業依頼: 稹湄湞滁漳潢滎を含む記事の改名に伴うリンク修正依頼 (漳州市) - log
3行目: 3行目:
[[江蘇省]][[南京市|江寧]]出身。[[上海市|上海]]で育ち、小刀会に加入。小刀会内部には広東グループ・福建グループ・上海グループがあったが、潘起亮は上海グループのリーダーとなった。[[1853年]]8月に小刀会が蜂起して上海を占領すると、指導者の[[劉麗川]]から「大将軍」に任命された。[[陳阿林]]・[[周秀英]]らとともに上海の防衛にあたったが、[[1855年]]1月に上海が陥落し、潘起亮は[[太平天国]]の都の天京まで逃れた。
[[江蘇省]][[南京市|江寧]]出身。[[上海市|上海]]で育ち、小刀会に加入。小刀会内部には広東グループ・福建グループ・上海グループがあったが、潘起亮は上海グループのリーダーとなった。[[1853年]]8月に小刀会が蜂起して上海を占領すると、指導者の[[劉麗川]]から「大将軍」に任命された。[[陳阿林]]・[[周秀英]]らとともに上海の防衛にあたったが、[[1855年]]1月に上海が陥落し、潘起亮は[[太平天国]]の都の天京まで逃れた。


太平天国では、[[1861年]]に衡天安に任じられ、左軍主将[[黄呈忠]]・討逆主将[[范汝増]]の[[寧波市|寧波]]攻略に従った。寧波では対外事務と税関管理を担当した。[[1862年]]、清軍とイギリス・フランス軍によって寧波が陥落すると、[[奉化市|奉化]]・[[慈渓市|慈渓]]を転戦して反攻の機をうかがった。[[1864年]]、天将に昇進した。天京陥落後は侍王[[李世賢]]に従って[[福建省]]を転戦し、[[1865年]]に[[ショウ州市|漳州]]を撤退する途中で戦死した。
太平天国では、[[1861年]]に衡天安に任じられ、左軍主将[[黄呈忠]]・討逆主将[[范汝増]]の[[寧波市|寧波]]攻略に従った。寧波では対外事務と税関管理を担当した。[[1862年]]、清軍とイギリス・フランス軍によって寧波が陥落すると、[[奉化市|奉化]]・[[慈渓市|慈渓]]を転戦して反攻の機をうかがった。[[1864年]]、天将に昇進した。天京陥落後は侍王[[李世賢]]に従って[[福建省]]を転戦し、[[1865年]]に[[州市|漳州]]を撤退する途中で戦死した。


==参考文献==
==参考文献==

2020年9月11日 (金) 21:24時点における版

潘 起亮(はん きりょう、Pan Qiliang1831年または1836年1865年)は、末の小刀会の乱の指導者の一人。潘可祥ともいう。

江蘇省江寧出身。上海で育ち、小刀会に加入。小刀会内部には広東グループ・福建グループ・上海グループがあったが、潘起亮は上海グループのリーダーとなった。1853年8月に小刀会が蜂起して上海を占領すると、指導者の劉麗川から「大将軍」に任命された。陳阿林周秀英らとともに上海の防衛にあたったが、1855年1月に上海が陥落し、潘起亮は太平天国の都の天京まで逃れた。

太平天国では、1861年に衡天安に任じられ、左軍主将黄呈忠・討逆主将范汝増寧波攻略に従った。寧波では対外事務と税関管理を担当した。1862年、清軍とイギリス・フランス軍によって寧波が陥落すると、奉化慈渓を転戦して反攻の機をうかがった。1864年、天将に昇進した。天京陥落後は侍王李世賢に従って福建省を転戦し、1865年漳州を撤退する途中で戦死した。

参考文献

  • 羅爾綱『太平天国史』中華書局