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[[江蘇省]][[南京市|江寧]]出身。[[上海市|上海]]で育ち、小刀会に加入。小刀会内部には広東グループ・福建グループ・上海グループがあったが、潘起亮は上海グループのリーダーとなった。[[1853年]]8月に小刀会が蜂起して上海を占領すると、指導者の[[劉麗川]]から「大将軍」に任命された。[[陳阿林]]・[[周秀英]]らとともに上海の防衛にあたったが、[[1855年]]1月に上海が陥落し、潘起亮は[[太平天国]]の都の天京まで逃れた。 |
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太平天国では、[[1861年]]に衡天安に任じられ、左軍主将[[黄呈忠]]・討逆主将[[范汝増]]の[[寧波市|寧波]]攻略に従った。寧波では対外事務と税関管理を担当した。[[1862年]]、清軍とイギリス・フランス軍によって寧波が陥落すると、[[奉化市|奉化]]・[[慈渓市|慈渓]]を転戦して反攻の機をうかがった。[[1864年]]、天将に昇進した。天京陥落後は侍王[[李世賢]]に従って[[福建省]]を転戦し、[[1865年]]に[[ |
太平天国では、[[1861年]]に衡天安に任じられ、左軍主将[[黄呈忠]]・討逆主将[[范汝増]]の[[寧波市|寧波]]攻略に従った。寧波では対外事務と税関管理を担当した。[[1862年]]、清軍とイギリス・フランス軍によって寧波が陥落すると、[[奉化市|奉化]]・[[慈渓市|慈渓]]を転戦して反攻の機をうかがった。[[1864年]]、天将に昇進した。天京陥落後は侍王[[李世賢]]に従って[[福建省]]を転戦し、[[1865年]]に[[漳州市|漳州]]を撤退する途中で戦死した。 |
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==参考文献== |
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2020年9月11日 (金) 21:24時点における版
潘 起亮(はん きりょう、Pan Qiliang、1831年または1836年 ‐ 1865年)は、清末の小刀会の乱の指導者の一人。潘可祥ともいう。
江蘇省江寧出身。上海で育ち、小刀会に加入。小刀会内部には広東グループ・福建グループ・上海グループがあったが、潘起亮は上海グループのリーダーとなった。1853年8月に小刀会が蜂起して上海を占領すると、指導者の劉麗川から「大将軍」に任命された。陳阿林・周秀英らとともに上海の防衛にあたったが、1855年1月に上海が陥落し、潘起亮は太平天国の都の天京まで逃れた。
太平天国では、1861年に衡天安に任じられ、左軍主将黄呈忠・討逆主将范汝増の寧波攻略に従った。寧波では対外事務と税関管理を担当した。1862年、清軍とイギリス・フランス軍によって寧波が陥落すると、奉化・慈渓を転戦して反攻の機をうかがった。1864年、天将に昇進した。天京陥落後は侍王李世賢に従って福建省を転戦し、1865年に漳州を撤退する途中で戦死した。
参考文献
- 羅爾綱『太平天国史』中華書局