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'''陸 法言'''(りく ほうげん、生没年不詳)は、中国・[[隋|隋代]]の[[音韻学|音韻学者]]。[[本貫]]は[[魏郡]][[臨 |
'''陸 法言'''(りく ほうげん、生没年不詳)は、中国・[[隋|隋代]]の[[音韻学|音韻学者]]。[[本貫]]は[[魏郡]][[臨漳県]]。'''法言'''は[[字]]であり、名は'''詞'''<ref>王仁昫『刊謬補欠切韻』による。『[[和名類聚抄]]』にも「陸詞切韻」とある。</ref>または'''慈'''<ref>『旧唐書』経籍志上「『切韻』五巻、陸慈撰。」</ref>という。[[陸爽]]の子で、[[陸 (姓)|陸氏]]は[[鮮卑|鮮卑人]]である<ref name="setsuin">[[:zh:切韻]]</ref><ref name="okada">岡田英弘 pp.103-106</ref>。 |
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== 業績 == |
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2020年9月11日 (金) 21:17時点における版
陸 法言(りく ほうげん、生没年不詳)は、中国・隋代の音韻学者。本貫は魏郡臨漳県。法言は字であり、名は詞[1]または慈[2]という。陸爽の子で、陸氏は鮮卑人である[3][4]。
業績
法言は、漢字の発音の標準を定めるため、古来の韻書の記述を統合し、601年(仁寿元年)に『切韻』5巻を編纂した。この編纂は、中国の歴史上、重要な業績の一つといえる。
『切韻』の序によれば、隋の開皇のはじめに、8人の著名学者(劉臻、顔之推、盧思道、李若、蕭該、辛徳源、薛道衡、魏彦淵)が法言の家にきて音韻について討論し、のちに『切韻』を完成したとある。完成までに十数年かかったという。
607年(大業3年)に科挙の制度がはじまるが、この制度によって、詩文の試験の成績がすぐれていれば、誰でも政府の要職につき、富と権力を得ることが可能となった。しかし詩文を読みこなし、つくりこなすためには、標準的な漢字音に精通していなければならない。その手引書となったのが『切韻』であった。以後、『唐韻』、『広韻』などに改訂され、中国の歴代の韻書における韻の分類は、『切韻』を基礎とすることになった。つまり、漢字の『切韻』音は、以後の中国語の一種の基準とされるに至ったのである[3][4]。
脚注
出典・参考文献
- 岡田英弘『中国文明の歴史』(講談社現代新書、新版2007年(初版2004年))ISBN 4-06-149761-8