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[[455年]](孝建2年)8月、都督[[豫州]]諸軍事・寧朔将軍・豫州刺史に転じた。[[456年]](孝建3年)、病のため建康に召還され、道中で死去した。享年は69。
[[455年]](孝建2年)8月、都督[[豫州]]諸軍事・寧朔将軍・豫州刺史に転じた。[[456年]](孝建3年)、病のため建康に召還され、道中で死去した。享年は69。


子の申寔は、[[ジョ州|南譙郡]]太守となったが、早逝した。
子の申寔は、[[州|南譙郡]]太守となったが、早逝した。


== 伝記資料 ==
== 伝記資料 ==

2020年9月11日 (金) 21:09時点における版

申 恬(しん てん、388年 - 456年)は、南朝宋官僚軍人は公休。本貫魏郡魏県

経歴

申宣(申鍾の孫)の子として生まれた。はじめ劉道憐の下で驃騎行参軍をつとめた。420年永初元年)、劉裕が帝位につくと、申恬は東宮殿中将軍となった。宮中に宿直すること10年に及んだが、休息を求めることがなかった。元嘉年間、員外散騎侍郎の位を受け、綏遠将軍・下邳郡太守として出向した。次いで北海郡太守に転じ、寧遠将軍の号を加えられた。さらに北譙梁二郡太守をつとめた。435年(元嘉12年)、都督魯東平済北三郡諸軍事・泰山郡太守に任じられた。臨川王劉義慶江陵に駐屯すると、申恬はその下で平西中兵参軍・河東郡太守となった。439年(元嘉16年)、衡陽王劉義季が劉義慶に代わって安西将軍・荊州刺史となると、申恬は安西府に入り、寧朔将軍の号を加えられた。後に建康に召還されて太子屯騎校尉となったが、母が死去したため辞職して喪に服した。

444年(元嘉21年)、冀州が歴城に移鎮されると、申恬は都督冀州青州之済南楽安太原三郡諸軍事・揚烈将軍・冀州刺史に任じられた。445年(元嘉22年)、済南郡太守の任を加えられた。446年(元嘉23年)、北魏の永昌王拓跋仁や高涼王拓跋那らの侵攻を受け、申恬は出撃して魏軍に敗れると、建康に召還された。

450年(元嘉27年)、通直散騎常侍として再び起用された。北魏の武昌王拓跋提が青州に侵攻してくると、申恬は援軍として東陽に派遣され、斉郡太守の龐秀之とともに東陽城を守った。魏軍が撤退すると、申恬は寧朔将軍・山陽郡太守に任じられた。453年(元嘉30年)6月、青州刺史に転じた。まもなく都督徐州之東莞東安二郡諸軍事の任を加えられた。454年孝建元年)、さらに都督冀州諸軍事の任を加えられ、輔国将軍の号を受けた。

455年(孝建2年)8月、都督豫州諸軍事・寧朔将軍・豫州刺史に転じた。456年(孝建3年)、病のため建康に召還され、道中で死去した。享年は69。

子の申寔は、南譙郡太守となったが、早逝した。

伝記資料