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'''劉 徳培'''(りゅう とくばい、''Liu Depei''、? - [[1863年]])、字は'''雪田'''のち'''春田'''。[[清]]末の信和団の乱の指導者。 |
'''劉 徳培'''(りゅう とくばい、''Liu Depei''、? - [[1863年]])、字は'''雪田'''のち'''春田'''。[[清]]末の信和団の乱の指導者。 |
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2020年9月11日 (金) 21:05時点における版
劉 徳培(りゅう とくばい、Liu Depei、? - 1863年)、字は雪田のち春田。清末の信和団の乱の指導者。
山東省淄川出身。秀才であったが、1860年に農民たちを率いて抗糧運動を起こした。清軍に捕らえられ死刑判決を受けたものの、済南に護送される途中に脱走した。潜伏中の1861年に「信和団」を組織し、「督招討大元帥」を名乗り、後に「大漢徳主」と改めた。「消滅満清、光復漢室」をスローガンとし、民衆を率いて淄川県城を占拠した。1863年、センゲリンチン(僧格林沁)率いる清軍に淄川を包囲され、半年にわたって抵抗したが、食糧が尽きたため6月22日に包囲を突破し、益都蓼塢大白山に逃れた。しかし、ふたたびセンゲリンチン軍に包囲され、自殺した。