「襄王 (斉)」の版間の差分
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襄王5年([[紀元前279年]])、[[田単]]が即墨で[[燕 (春秋)|燕]]を撃破し、襄王を[[臨淄区|臨淄]]に迎え入れ、斉の旧領をすべて回復した。 |
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襄王14年([[紀元前270年]])、[[秦]]に剛寿を攻撃された。 |
襄王14年([[紀元前270年]])、[[秦]]に剛寿を攻撃された。 |
2020年9月11日 (金) 21:04時点における版
襄王 田法章 | |
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斉 | |
王朝 | 斉 |
在位期間 | 前283年 - 前265年 |
姓・諱 | 田法章 |
諡号 | 襄王 |
没年 | 紀元前265年 |
父 | 湣王 |
后妃 | 君王后 |
襄王(じょうおう、生年不詳 - 紀元前265年)は、中国の戦国時代の斉の君主。姓は媯、氏は田、諱は法章。湣王の子。
生涯
湣王40年(紀元前284年)、湣王が淖歯に殺害されると、法章は姓名を変えて莒県の太史敫の家の雇い人になった。太史敫の娘(君王后)は法章の顔を見て、普通の人ではないと思い、衣食の世話をして、男女の仲となった。淖歯が莒県を去ると、莒県の人と斉の亡臣たちは湣王の子を探し求め、法章を立てようとした。法章は殺されるのを恐れて躊躇していたが、意を決して「わたしは湣王の子である」と名乗り出た。このため莒県の人は法章を斉の王に擁立した。これが襄王であった。
襄王5年(紀元前279年)、田単が即墨で燕を撃破し、襄王を臨淄に迎え入れ、斉の旧領をすべて回復した。
襄王19年(紀元前265年)、襄王は死去した。在位19年。
参考文献
- 『史記』田敬仲完世家