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'''左 思'''(さ し、生没年不詳、一説に[[252年]] - [[307年]]頃<ref>葉日光『左思生平及其詩之折論』(台湾文史哲出版社、1979年)より</ref>)は、[[中国]][[西晋]]の文学者。[[字]]は'''太沖'''。[[斉郡|斉国]][[臨淄区|臨淄県]]の人。門閥の後ろ盾のない寒門の出身であり、官途は不遇だったが、文才に優れ、代表作『三都[[賦]]』は「'''洛陽の紙価を高からしむ(洛陽紙貴)'''」の[[故事]]の由来となった。妹の[[左フン|左棻]]も詩文の才能があり、[[司馬炎]]の妃となった。 |
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2020年9月11日 (金) 21:02時点における版
左 思(さ し、生没年不詳、一説に252年 - 307年頃[1])は、中国西晋の文学者。字は太沖。斉国臨淄県の人。門閥の後ろ盾のない寒門の出身であり、官途は不遇だったが、文才に優れ、代表作『三都賦』は「洛陽の紙価を高からしむ(洛陽紙貴)」の故事の由来となった。妹の左棻も詩文の才能があり、司馬炎の妃となった。
略歴
左熹の子として生まれた。史書によると、左思は寒門の出身の上、容貌は醜くどもりであったが、学問に励み文章に巧みであったという。
妹の左棻が西晋の武帝司馬炎の後宮に入ったので、首都の洛陽に家を移した。魏呉蜀三国の首都を題材にした『三都賦』の執筆を思い立ち、10年の歳月をかけてこれを完成させた。完成当初は世人の批判を浴びたが、当時の文壇の大御所である張華にこれを見せると、張華は班固の『両都賦』や張衡の『二京賦』に匹敵する傑作だと激賞し、無名の左思に名士の手を借りることを勧めた。左思が名士の皇甫謐に序文を書いてもらうと、『三都賦』の名声は大いに高まり、以前批判した者たちも手のひらを返して褒め称えたという[2]。人々が争って『三都賦』を筆写したため、洛陽城内の紙の値段が高騰したという逸話は、後に「洛陽の紙価を高からしむ」の故事となった。左思と同時代の文学者である陸機も、同じく『三都賦』の制作を構想していた。陸機は洛陽に上京すると左思の噂を聞いたが、弟の陸雲に手紙で「田舎者の『三都賦』が出来上がったら、酒瓶の覆いにするのがよかろう」といって、まるで相手にしていなかった。しかし完成した左思の賦を見るや、その出来映えに脱帽し、自身の制作を断念したという。
後に権臣の賈謐の招きに応じ『漢書』を講じた。300年、八王の乱で賈謐が趙王司馬倫に誅殺されると、官職を辞して隠棲し、典籍に没頭した。
303年、河間王司馬顒の将軍張方が洛陽で暴虐の限りを尽くすと、左思は家をあげて冀州に避難し、数年後に病没した。
文学作品
『隋書』経籍志によると、文集2巻(梁代には5巻、目録1巻)が存在していたとあるが散逸した。現存する文学作品としては、上述の『三都賦』のほか、寒門出身として当時の貴族社会への批判を込めた「詠史詩」や「招隠詩」、自分の娘の様子を描いたユニークな内容の「嬌女詩」が代表作とされる。鍾嶸の『詩品』では最上位の上品に列せられ、劉楨の力強い詩風を受け継ぎ、諷諭の精神を体得すると評されている。
脚注
伝記資料
- 『晋書』巻92 列伝第62