「龍且」の版間の差分
表示
削除された内容 追加された内容
編集の要約なし |
|||
4行目: | 4行目: | ||
[[紀元前206年]]、漢王[[劉邦]]が起兵して三秦を平定すると、楚の龍且は[[魏 (戦国)|魏]]の[[諸侯相|相]]の[[項它]]とともに定陶の南で[[前漢|漢]]の[[灌嬰]]の軍と戦ったが敗れた<ref>『[[史記]]』樊酈滕灌列伝</ref>。[[紀元前204年]]、龍且は項羽一族の[[項声]]とともに[[淮南]]を攻め、[[英布]]の軍を破った。英布は漢を頼って逃亡した<ref>『史記』黥布列伝</ref>。 |
[[紀元前206年]]、漢王[[劉邦]]が起兵して三秦を平定すると、楚の龍且は[[魏 (戦国)|魏]]の[[諸侯相|相]]の[[項它]]とともに定陶の南で[[前漢|漢]]の[[灌嬰]]の軍と戦ったが敗れた<ref>『[[史記]]』樊酈滕灌列伝</ref>。[[紀元前204年]]、龍且は項羽一族の[[項声]]とともに[[淮南]]を攻め、[[英布]]の軍を破った。英布は漢を頼って逃亡した<ref>『史記』黥布列伝</ref>。 |
||
紀元前203年10月、[[韓信]]が[[臨 |
紀元前203年10月、[[韓信]]が[[臨淄区|臨淄]]を平定すると、項羽は龍且に命じて、亜将[[周蘭]]を副将として将兵20万を率いさせて派遣させた。冬11月<ref>『史記三家註』巻94</ref>のことであった。周蘭は[[持久戦]]にすべきと龍且に進言したが、彼は韓信のことを「股夫」と侮ってこれを聴かなかった。 |
||
龍且と周蘭は韓信と濰水をはさんで対陣した。韓信は夜間のうちに濰水の上流に土嚢を積んで堰を造り、水を塞いでおいた。韓信は軍を率いて半ばが渡ったところで龍且の軍を攻撃し、偽って敗走した。龍且は「私は以前からもともと韓信が臆病なのは知っていた」と嘲笑って追撃した。これをみた韓信は土嚢の堰を決壊させた。龍且の軍の大半が渡りきらないうちに韓信は反撃を加え、龍且は灌嬰の軍勢によって討ち取られた<ref>『史記』淮陰侯列伝</ref>。 |
龍且と周蘭は韓信と濰水をはさんで対陣した。韓信は夜間のうちに濰水の上流に土嚢を積んで堰を造り、水を塞いでおいた。韓信は軍を率いて半ばが渡ったところで龍且の軍を攻撃し、偽って敗走した。龍且は「私は以前からもともと韓信が臆病なのは知っていた」と嘲笑って追撃した。これをみた韓信は土嚢の堰を決壊させた。龍且の軍の大半が渡りきらないうちに韓信は反撃を加え、龍且は灌嬰の軍勢によって討ち取られた<ref>『史記』淮陰侯列伝</ref>。 |
2020年9月11日 (金) 21:02時点における版
龍 且(りゅう しょ、生年不詳 - 紀元前203年)は、楚の武将。項羽の部下。
経歴
紀元前206年、漢王劉邦が起兵して三秦を平定すると、楚の龍且は魏の相の項它とともに定陶の南で漢の灌嬰の軍と戦ったが敗れた[1]。紀元前204年、龍且は項羽一族の項声とともに淮南を攻め、英布の軍を破った。英布は漢を頼って逃亡した[2]。
紀元前203年10月、韓信が臨淄を平定すると、項羽は龍且に命じて、亜将周蘭を副将として将兵20万を率いさせて派遣させた。冬11月[3]のことであった。周蘭は持久戦にすべきと龍且に進言したが、彼は韓信のことを「股夫」と侮ってこれを聴かなかった。
龍且と周蘭は韓信と濰水をはさんで対陣した。韓信は夜間のうちに濰水の上流に土嚢を積んで堰を造り、水を塞いでおいた。韓信は軍を率いて半ばが渡ったところで龍且の軍を攻撃し、偽って敗走した。龍且は「私は以前からもともと韓信が臆病なのは知っていた」と嘲笑って追撃した。これをみた韓信は土嚢の堰を決壊させた。龍且の軍の大半が渡りきらないうちに韓信は反撃を加え、龍且は灌嬰の軍勢によって討ち取られた[4]。