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'''陳 介祺'''(ちん かいき、''Chen Jieqi''、[[1813年]] - [[1884年]])。字は'''寿卿'''または'''酉生'''、号は'''伯潜'''。[[清]]の[[金石学]]者。
'''陳 介祺'''(ちん かいき、''Chen Jieqi''、[[1813年]] - [[1884年]])。字は'''寿卿'''または'''酉生'''、号は'''伯潜'''。[[清]]の[[金石学]]者。


[[山東省]][[城区|濰県]]出身。吏部尚書[[陳官俊]]の子。幼時から学問を好み、父に従って[[北京市|北京]]で学問を修め、広く文名が知られた。[[1845年]]に[[進士]]となり、[[翰林院]]編修となった。しかしすぐに官を辞して郷里に帰り、[[毛公鼎]]を入手するなど金石学の研究に打ち込んだ。[[潘祖蔭]]、[[呉大澂]]らと交流し、「南潘北陳」と称された。
[[山東省]][[城区|濰県]]出身。吏部尚書[[陳官俊]]の子。幼時から学問を好み、父に従って[[北京市|北京]]で学問を修め、広く文名が知られた。[[1845年]]に[[進士]]となり、[[翰林院]]編修となった。しかしすぐに官を辞して郷里に帰り、[[毛公鼎]]を入手するなど金石学の研究に打ち込んだ。[[潘祖蔭]]、[[呉大澂]]らと交流し、「南潘北陳」と称された。


==著書==
==著書==

2020年9月6日 (日) 04:48時点における版

陳 介祺(ちん かいき、Chen Jieqi1813年 - 1884年)。字は寿卿または酉生、号は伯潜金石学者。

山東省濰県出身。吏部尚書陳官俊の子。幼時から学問を好み、父に従って北京で学問を修め、広く文名が知られた。1845年進士となり、翰林院編修となった。しかしすぐに官を辞して郷里に帰り、毛公鼎を入手するなど金石学の研究に打ち込んだ。潘祖蔭呉大澂らと交流し、「南潘北陳」と称された。

著書

  • 『簠斎金石文考釈』
  • 『簠斎尺牘』
  • 『東武劉氏款識』
  • 『簠斎蔵古目』
  • 『伝古別録』