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高崇の父の高潜は、[[献文帝]]のときに[[高句麗]]から北魏に帰順して、開陽男の爵位を受け、遼東に居住した。母の武威公主は、[[沮渠牧犍]]の娘であった。沮渠氏の嫡系が[[447年]]([[太平真君]]8年)に断絶していたことから、高崇は武威公主の意向で牧犍の後を嗣ぎ、沮渠と改姓した。[[孝文帝]]に召し出されて中散となり、後に尚書三公郎に転じた。[[景明]]年間、高姓に戻され、父の爵位を嗣ぎ、領軍長史・伏波将軍・[[洛陽|洛陽県]]令に任じられた。県の統治においては、勢力家の摘発も辞さなかったため、官吏や民衆にその威風を畏れられた。朝廷が新たな官に任じようとしたところ、病没した。享年は37。[[漁陽郡]][[太守]]の位を追贈された。[[529年]]([[永安 (北魏)|永安]]2年)、さらに征虜将軍・[[滄州]]刺史の位を贈られた。[[諡]]は成といった。 |
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== 子女 == |
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2020年9月6日 (日) 04:41時点における版
高 崇(こう すう、生没年不詳)は、北魏の官僚。字は積善。本貫は渤海郡蓨県。
経歴
高崇の父の高潜は、献文帝のときに高句麗から北魏に帰順して、開陽男の爵位を受け、遼東に居住した。母の武威公主は、沮渠牧犍の娘であった。沮渠氏の嫡系が447年(太平真君8年)に断絶していたことから、高崇は武威公主の意向で牧犍の後を嗣ぎ、沮渠と改姓した。孝文帝に召し出されて中散となり、後に尚書三公郎に転じた。景明年間、高姓に戻され、父の爵位を嗣ぎ、領軍長史・伏波将軍・洛陽県令に任じられた。県の統治においては、勢力家の摘発も辞さなかったため、官吏や民衆にその威風を畏れられた。朝廷が新たな官に任じようとしたところ、病没した。享年は37。漁陽郡太守の位を追贈された。529年(永安2年)、さらに征虜将軍・滄州刺史の位を贈られた。諡は成といった。