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後に延明は[[酒泉郡|酒泉]]に隠居し、州郡の召命に応じなかった。延明の講義を受ける弟子は500人あまりいた。[[西涼]]の[[李暠]]に召されて、儒林祭酒・従事中郎となった。李暠が古典の文章を好んだため、延明は重用された。撫夷護軍となり、政務のさなかでも、書巻を手放さなかった。『略記』130篇84巻、『涼書』10巻、『敦煌実録』20巻、『方言』3巻、『靖恭堂銘』1巻を著し、『[[易経|周易]]』・『[[韓非子|韓子]]』・『人物誌』・『[[三略|黄石公三略]]』に注釈して、当時の世に通行した。
後に延明は[[酒泉郡|酒泉]]に隠居し、州郡の召命に応じなかった。延明の講義を受ける弟子は500人あまりいた。[[西涼]]の[[李暠]]に召されて、儒林祭酒・従事中郎となった。李暠が古典の文章を好んだため、延明は重用された。撫夷護軍となり、政務のさなかでも、書巻を手放さなかった。『略記』130篇84巻、『涼書』10巻、『敦煌実録』20巻、『方言』3巻、『靖恭堂銘』1巻を著し、『[[易経|周易]]』・『[[韓非子|韓子]]』・『人物誌』・『[[三略|黄石公三略]]』に注釈して、当時の世に通行した。


[[沮渠蒙遜]]が酒泉を占領すると、延明は秘書郎に任じられた。西苑に陸沈観を築き、「玄処先生」と号して礼遇された。[[沮渠牧ケン|沮渠牧犍]]は延明を尊んで国師とし、属官たちに命じて北面して講義を受けさせた。同じく敦煌郡出身の[[索敞]]と陰興を助教とした。
[[沮渠蒙遜]]が酒泉を占領すると、延明は秘書郎に任じられた。西苑に陸沈観を築き、「玄処先生」と号して礼遇された。[[沮渠牧犍]]は延明を尊んで国師とし、属官たちに命じて北面して講義を受けさせた。同じく敦煌郡出身の[[索敞]]と陰興を助教とした。


北魏の[[太武帝]]が[[涼州]]を平定すると、延明は楽平王従事中郎に任じられた。涼州の人々は東の内地に移されたが、70歳以上の者は郷里に留まることを許され、延明は老年のため[[姑臧]]に残った。1年あまりして、郷里の敦煌に帰ろうとして、涼州の西400里の韭谷窟で病のために死去した。
北魏の[[太武帝]]が[[涼州]]を平定すると、延明は楽平王従事中郎に任じられた。涼州の人々は東の内地に移されたが、70歳以上の者は郷里に留まることを許され、延明は老年のため[[姑臧]]に残った。1年あまりして、郷里の敦煌に帰ろうとして、涼州の西400里の韭谷窟で病のために死去した。

2020年9月6日 (日) 04:40時点における版

劉 延明(りゅう えんめい、? - 440年頃)は、中国五胡十六国から北魏にかけての学者(へい)で、延明はである。本貫敦煌郡

経歴

劉宝の子として生まれた。14歳のとき、博士の郭瑀の下で学んだ。郭瑀の弟子は500人あまりおり、経に通じた者も80人あまりいたが、郭瑀は娘の婿として延明を選んだ。

後に延明は酒泉に隠居し、州郡の召命に応じなかった。延明の講義を受ける弟子は500人あまりいた。西涼李暠に召されて、儒林祭酒・従事中郎となった。李暠が古典の文章を好んだため、延明は重用された。撫夷護軍となり、政務のさなかでも、書巻を手放さなかった。『略記』130篇84巻、『涼書』10巻、『敦煌実録』20巻、『方言』3巻、『靖恭堂銘』1巻を著し、『周易』・『韓子』・『人物誌』・『黄石公三略』に注釈して、当時の世に通行した。

沮渠蒙遜が酒泉を占領すると、延明は秘書郎に任じられた。西苑に陸沈観を築き、「玄処先生」と号して礼遇された。沮渠牧犍は延明を尊んで国師とし、属官たちに命じて北面して講義を受けさせた。同じく敦煌郡出身の索敞と陰興を助教とした。

北魏の太武帝涼州を平定すると、延明は楽平王従事中郎に任じられた。涼州の人々は東の内地に移されたが、70歳以上の者は郷里に留まることを許され、延明は老年のため姑臧に残った。1年あまりして、郷里の敦煌に帰ろうとして、涼州の西400里の韭谷窟で病のために死去した。

子女

  • 劉僧衍(早逝)
  • 劉仲礼(郷里に留まった)
  • 劉字仲
  • 劉弐帰
  • 劉帰仁(平城に移住した)

伝記資料