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[[雲南省]][[大関県|大関]]出身。貧農出身であったが、[[1859年]]に[[藍朝鼎]]・[[藍朝柱]]兄弟とともに「不交租・不納糧」「打富済貧」をスローガンに蜂起して、「順天王」と称した。順天軍は[[四川省]]に入り、[[宜賓市|叙州]]を包囲した後、[[犍為県|犍為]]・[[楽山市|楽山]]を占領した。犍為・楽山は製塩業が盛んであったが、塩工たちが順天軍に参加して軍勢はたちまち10数万人に膨れ上がった。[[1860年]]の段階で順天軍の活動範囲は40余りの州県に及んだ。李永和と藍朝鼎・藍朝柱は兵力を分け、李永和が犍為・楽山一帯を守り、藍朝鼎・藍朝柱は[[綿陽市|綿州]]攻略のために北上した。しかし兵力が分散したところに、清朝は[[湘軍]]を率いる[[駱秉章]]を[[四川総督]]に起用して対抗した。[[1862年]]、藍朝鼎が敗北した後、駱秉章は李永和の根拠地に兵力を集中し、水攻めを行った。こうして李永和は捕らえられ処刑された。 |
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2020年9月6日 (日) 04:38時点における版
李 永和(り えいわ、Li Yonghe、? - 1862年)は、清末の順天軍の蜂起の指導者。
雲南省大関出身。貧農出身であったが、1859年に藍朝鼎・藍朝柱兄弟とともに「不交租・不納糧」「打富済貧」をスローガンに蜂起して、「順天王」と称した。順天軍は四川省に入り、叙州を包囲した後、犍為・楽山を占領した。犍為・楽山は製塩業が盛んであったが、塩工たちが順天軍に参加して軍勢はたちまち10数万人に膨れ上がった。1860年の段階で順天軍の活動範囲は40余りの州県に及んだ。李永和と藍朝鼎・藍朝柱は兵力を分け、李永和が犍為・楽山一帯を守り、藍朝鼎・藍朝柱は綿州攻略のために北上した。しかし兵力が分散したところに、清朝は湘軍を率いる駱秉章を四川総督に起用して対抗した。1862年、藍朝鼎が敗北した後、駱秉章は李永和の根拠地に兵力を集中し、水攻めを行った。こうして李永和は捕らえられ処刑された。
参考文献
- 郭穀生・史式編『太平天国大辞典』中国社会科学出版社
- 『中国歴史大辞典・清史(下)』上海辞書出版社