「費立」の版間の差分
表示
削除された内容 追加された内容
編集の要約なし |
|||
1行目: | 1行目: | ||
'''費 立'''(ひ りつ、? - [[312年]])は、[[中国]][[三国時代 (中国)|三国時代]]末期から[[西晋]]の人物。[[蜀漢]]・晋に仕えた。字は建熙<ref name="kayou">『[[華陽国志]]』より。</ref>。[[益州]][[ |
'''費 立'''(ひ りつ、? - [[312年]])は、[[中国]][[三国時代 (中国)|三国時代]]末期から[[西晋]]の人物。[[蜀漢]]・晋に仕えた。字は建熙<ref name="kayou">『[[華陽国志]]』より。</ref>。[[益州]][[犍為郡]][[南安県]]の人。父は[[費詩]]、子は費并。[[裴松之]]が引く『蜀世譜』([[孫盛]]著)に記述がある。 |
||
== 生涯 == |
== 生涯 == |
2020年9月6日 (日) 04:35時点における版
費 立(ひ りつ、? - 312年)は、中国三国時代末期から西晋の人物。蜀漢・晋に仕えた。字は建熙[1]。益州犍為郡南安県の人。父は費詩、子は費并。裴松之が引く『蜀世譜』(孫盛著)に記述がある。
生涯
父同様、蜀漢の滅亡まで仕えた。若いころは学問を正しく深く修め、冷静沈着であった。
蜀漢の滅亡後は、在らぬ噂を立てられ不遇の身であったが、蜀漢の旧臣で西晋の高官になっていた何攀が、費立のために弁護したため誤解が解け、仕官が叶う事になった[1]。梁益寧三州都督を助け、尚書兼ねた後に、晋の関内侯、散騎常侍にまで出世した。
三州の人物を分け隔てなく正しく品評したため、畏敬しないものはいなかった。永嘉6年(312年)、子の費并、散騎常侍、梁州都督の呂淑と共に胡人の反乱によって戦没した[1]。
西晋以降、犍為郡の費姓の人物で名声・官位を得たのは、全て費詩・費立父子の末裔であったと伝わる。