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「九国志」の版間の差分

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== 概要 ==
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路振は[[真宗 (宋)|真宗]]時代の[[知制誥]]。[[契丹]]への使者などを務めた<ref>路振の詳しい伝記は『[[宋史]]』巻411(列伝第200 文苑3)にある。</ref>。その彼が[[呉 (十国)|呉]]・[[南唐]]・[[呉越]]・[[前蜀]]・[[後蜀]]・東漢([[北漢]])・[[南漢]]・[[閩]]・[[楚 (十国)|楚]]の9か国の君臣の事績を集めて世家・列伝49巻を編纂したが、完成をみずに[[1014年]]に58歳で没した。その後、[[1061年]]になって孫の[[路綸]]が北楚([[荊南]])2巻分を補い、[[1064年]]に朝廷に進献した<ref name="zokutyohen">[[李トウ (歴史家)|李燾]]『[[続資治通鑑長編]]』巻202、[[治平 (宋)|治平]]元年6月条。</ref>。その後、[[詔]]によって[[史館]]に納められ、[[張唐英]]によって改めて北楚2巻などを増補したという<ref name=gyokukai>[[王応麟]]『[[玉海]]』巻48。</ref>。刊本はなく、その後散逸していたが、[[清]]の[[邵晋涵]]『[[永楽大典]]』などに所収されている分から136名<ref>呉40名・南唐1名・呉越5名・前蜀18名・後蜀27名・東漢5名・南漢8名・閩8名・楚19名・北楚1名。</ref>の伝を抜きだし、それを[[周夢棠]]が12巻(呉臣伝のみ3巻、他は1巻ずつ)としたのが現行本である。[[正史]]である『[[旧五代史]]』・『[[新五代史]]』に見えない記述も含んでおり、史料的価値が高い。
路振は[[真宗 (宋)|真宗]]時代の[[知制誥]]。[[契丹]]への使者などを務めた<ref>路振の詳しい伝記は『[[宋史]]』巻411(列伝第200 文苑3)にある。</ref>。その彼が[[呉 (十国)|呉]]・[[南唐]]・[[呉越]]・[[前蜀]]・[[後蜀]]・東漢([[北漢]])・[[南漢]]・[[閩]]・[[楚 (十国)|楚]]の9か国の君臣の事績を集めて世家・列伝49巻を編纂したが、完成をみずに[[1014年]]に58歳で没した。その後、[[1061年]]になって孫の[[路綸]]が北楚([[荊南]])2巻分を補い、[[1064年]]に朝廷に進献した<ref name="zokutyohen">[[李 (南宋)|李燾]]『[[続資治通鑑長編]]』巻202、[[治平 (宋)|治平]]元年6月条。</ref>。その後、[[詔]]によって[[史館]]に納められ、[[張唐英]]によって改めて北楚2巻などを増補したという<ref name=gyokukai>[[王応麟]]『[[玉海]]』巻48。</ref>。刊本はなく、その後散逸していたが、[[清]]の[[邵晋涵]]『[[永楽大典]]』などに所収されている分から136名<ref>呉40名・南唐1名・呉越5名・前蜀18名・後蜀27名・東漢5名・南漢8名・閩8名・楚19名・北楚1名。</ref>の伝を抜きだし、それを[[周夢棠]]が12巻(呉臣伝のみ3巻、他は1巻ずつ)としたのが現行本である。[[正史]]である『[[旧五代史]]』・『[[新五代史]]』に見えない記述も含んでおり、史料的価値が高い。


最終的に十国の伝記が納められたことから、『十国志』という名称も用いられた<ref name=gyokukai/>が、路振の原題がそのまま用いられ、『九国志』と呼ばれるのが普通である。この「九国」の表現については、前蜀と後蜀を合わせたものとする説<ref name=zokutyohen/>もあるが、通説では北楚(荊南)を除いたとされている。これについて、[[山崎覚士]]は、「十国」が確認される最古の事例は[[1053年]]に完成した[[欧陽脩]]の『新五代史』(当時は『五代史記』)であり、欧陽脩が活躍した[[仁宗 (宋)|仁宗]]期以前には地方政権を総称して「十国」と呼称する概念がなかったとし、それ以前の荊南は自立した国家とはみなされずに[[五代十国時代|中国(五代王朝)]]の[[節度使]]として扱われていたため、路振は当時の認識に従って「九国」の事跡を記すのみであったとしている<ref>反対に欧陽脩とほぼ同時代の路綸・張唐英は、欧陽脩あるいは当時の歴史観の影響を受けて、北楚(荊南)を欠けていると捉えて増補したと考えられている。</ref>。
最終的に十国の伝記が納められたことから、『十国志』という名称も用いられた<ref name=gyokukai/>が、路振の原題がそのまま用いられ、『九国志』と呼ばれるのが普通である。この「九国」の表現については、前蜀と後蜀を合わせたものとする説<ref name=zokutyohen/>もあるが、通説では北楚(荊南)を除いたとされている。これについて、[[山崎覚士]]は、「十国」が確認される最古の事例は[[1053年]]に完成した[[欧陽脩]]の『新五代史』(当時は『五代史記』)であり、欧陽脩が活躍した[[仁宗 (宋)|仁宗]]期以前には地方政権を総称して「十国」と呼称する概念がなかったとし、それ以前の荊南は自立した国家とはみなされずに[[五代十国時代|中国(五代王朝)]]の[[節度使]]として扱われていたため、路振は当時の認識に従って「九国」の事跡を記すのみであったとしている<ref>反対に欧陽脩とほぼ同時代の路綸・張唐英は、欧陽脩あるいは当時の歴史観の影響を受けて、北楚(荊南)を欠けていると捉えて増補したと考えられている。</ref>。

2020年9月6日 (日) 04:34時点における版

九国志』(きゅうこくし)は、北宋路振が著した十国歴史書。『十国志』(じっこくし)とも呼ばれる。元は51巻、現行本は12巻。

概要

路振は真宗時代の知制誥契丹への使者などを務めた[1]。その彼が南唐呉越前蜀後蜀・東漢(北漢)・南漢の9か国の君臣の事績を集めて世家・列伝49巻を編纂したが、完成をみずに1014年に58歳で没した。その後、1061年になって孫の路綸が北楚(荊南)2巻分を補い、1064年に朝廷に進献した[2]。その後、によって史館に納められ、張唐英によって改めて北楚2巻などを増補したという[3]。刊本はなく、その後散逸していたが、邵晋涵永楽大典』などに所収されている分から136名[4]の伝を抜きだし、それを周夢棠が12巻(呉臣伝のみ3巻、他は1巻ずつ)としたのが現行本である。正史である『旧五代史』・『新五代史』に見えない記述も含んでおり、史料的価値が高い。

最終的に十国の伝記が納められたことから、『十国志』という名称も用いられた[3]が、路振の原題がそのまま用いられ、『九国志』と呼ばれるのが普通である。この「九国」の表現については、前蜀と後蜀を合わせたものとする説[2]もあるが、通説では北楚(荊南)を除いたとされている。これについて、山崎覚士は、「十国」が確認される最古の事例は1053年に完成した欧陽脩の『新五代史』(当時は『五代史記』)であり、欧陽脩が活躍した仁宗期以前には地方政権を総称して「十国」と呼称する概念がなかったとし、それ以前の荊南は自立した国家とはみなされずに中国(五代王朝)節度使として扱われていたため、路振は当時の認識に従って「九国」の事跡を記すのみであったとしている[5]

脚注

  1. ^ 路振の詳しい伝記は『宋史』巻411(列伝第200 文苑3)にある。
  2. ^ a b 李燾続資治通鑑長編』巻202、治平元年6月条。
  3. ^ a b 王応麟玉海』巻48。
  4. ^ 呉40名・南唐1名・呉越5名・前蜀18名・後蜀27名・東漢5名・南漢8名・閩8名・楚19名・北楚1名。
  5. ^ 反対に欧陽脩とほぼ同時代の路綸・張唐英は、欧陽脩あるいは当時の歴史観の影響を受けて、北楚(荊南)を欠けていると捉えて増補したと考えられている。

参考文献

  • 成田節男「九国志」(『東洋歴史大辞典』(平凡社、1937年/縮刷版:臨川書店、1986年)ISBN 978-4-653-01472-0
  • 『東洋史料集成』(平凡社、初版1956年/新装版1985年)1985年版P190(執筆担当:周藤吉之)
  • 山崎覚士「五代の〈中国〉と平王」(初出:宋代史研究会研究報告第九集『「宋代中国」の相対化』(汲古書院、2009年) ISBN 978-4-76292-866-6/所収:山崎『中国五代国家論』(思文閣出版、2010年) ISBN 978-4-7842-1545-4