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これらの蓄積を元に、柴栄は[[唐]]滅亡以来の統一を目指して奔走する。955年、初めに[[四川省|四川]]の[[後蜀 (十国)|後蜀]]を攻めて[[秦州]](現在の[[甘粛省]][[天水市]])を初めとする4州を奪った。
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さらに同年の冬から、十国のうちでの最強国である[[南唐]]を攻める。南唐も激しく抵抗し、この戦いは3年にわたるが、958年に君主の[[李ケイ (南唐)|李璟]]は降伏し、和睦の代償として南唐の[[長江]]以北の領土の割譲や、後周に対して南唐は皇帝号を廃して国主と名乗るなどといった条件を取り決めた。この[[淮河]]から長江に至る地域は、中国でも最大の[[塩]]の産地が含まれており、南唐の高い経済力はこの地があればこそと言っても過言ではなく、この地の占領はまさに南唐の生殺与奪権を握ったと同義であった。以後、南唐では自国内の塩の供給をまかなうことが出来ず、逆に後周から毎年30万石(17,800キロリットル)の援助を受けるようになる。
さらに同年の冬から、十国のうちでの最強国である[[南唐]]を攻める。南唐も激しく抵抗し、この戦いは3年にわたるが、958年に君主の[[李璟]]は降伏し、和睦の代償として南唐の[[長江]]以北の領土の割譲や、後周に対して南唐は皇帝号を廃して国主と名乗るなどといった条件を取り決めた。この[[淮河]]から長江に至る地域は、中国でも最大の[[塩]]の産地が含まれており、南唐の高い経済力はこの地があればこそと言っても過言ではなく、この地の占領はまさに南唐の生殺与奪権を握ったと同義であった。以後、南唐では自国内の塩の供給をまかなうことが出来ず、逆に後周から毎年30万石(17,800キロリットル)の援助を受けるようになる。


南唐を抑えた柴栄は、次に軍事的に最強の敵である北の[[遼|契丹]]とその衛星国である[[北漢]]を相手取り、959年に[[燕雲十六州]]のうち、南寄りの[[莫州]]・[[瀛州]]と寧州(唐末・北宋の乾寧軍、現在の河北省[[滄州市]][[青県]])・瓦橋関(後の[[雄州]])・益津関(後の[[覇州]])・淤口関(現在の河北省[[廊坊市]][[覇州市]]信安鎮)の3州3関を奪取した。
南唐を抑えた柴栄は、次に軍事的に最強の敵である北の[[遼|契丹]]とその衛星国である[[北漢]]を相手取り、959年に[[燕雲十六州]]のうち、南寄りの[[莫州]]・[[瀛州]]と寧州(唐末・北宋の乾寧軍、現在の河北省[[滄州市]][[青県]])・瓦橋関(後の[[雄州]])・益津関(後の[[覇州]])・淤口関(現在の河北省[[廊坊市]][[覇州市]]信安鎮)の3州3関を奪取した。

2020年9月6日 (日) 04:27時点における版

世宗 柴栄
後周
第2代皇帝
王朝 後周
在位期間 954年2月26日 - 959年7月27日
都城 開封
姓・諱 柴栄
諡号 睿武孝文皇帝
廟号 世宗
生年 龍徳元年9月24日
921年10月27日
没年 顕徳6年6月19日
959年7月27日
柴守礼
后妃 宣懿皇后(大符皇后)
宣慈皇后(小符皇后)
陵墓 慶陵
年号 顕徳 : 954年 - 959年

柴 栄(さい えい)は、五代後周の第2代皇帝廟号世宗。五代で随一の名君とされ、後周の全盛期を築き上げたが若死した。

生涯

即位まで

実父の柴守礼(字は克譲)は郭威(太祖)の妻の柴氏の兄である。柴氏は郭威と同郷の邢州(現在の河北省邢台市)出身で、郭威の即位前より内助の功を発揮し、その覇業を助けたと言う。柴氏は郭威の即位前に死去し、即位後に郭威がその死を惜しんで皇后を追贈した。

柴栄は幼い頃より叔母の嫁ぎ先である郭威の家で養われ、後晋末に郭威の養子となっていた。郭威が権力を獲得していく戦いの中で柴栄も助力し、郭威が後漢枢密使・天雄軍節度使となると、柴栄も郭威の下で天雄軍牙軍の総指揮官となり、郭威が後漢に対してクーデターを起こして開封へと侵攻した際には、根拠地である魏州の防衛を任された。郭威が即位して周を建てると、澶州(現在の河南省濮陽市)節度使とされる。

郭威の一族は後漢の隠帝に殺害されていたこともあり、954年に郭威が没すると後継者に指名されて即位することになった。

岡田英弘は、郭威は邢州堯山県の人であるから漢人のようであり、柴栄は邢州竜岡県の人であり、郭威の妻の兄の子から郭威の養子となったから同じく漢人のようであるが、異民族とされる唐朝の興ったのは隆堯県であり、唐朝の先祖の李熙李天錫の2代の墓があるのも隆堯県であり、李天錫の子が李虎鮮卑宇文部宇文泰が自分と同じ立場の武川鎮軍閥関係者から八柱国と十二大将軍を置いたが、十二大将軍の一人が隴西郡開国公李虎)であるように隆堯県は異民族の住地であり、同じ異民族の安禄山も邢州出身だったことから郭威・柴栄はもともとは突厥沙陀部の血筋を引いていると考えてよいと述べている[1]

国内改革

即位後、郭威が死んだ隙を突いて、北漢契丹の援軍を得て侵攻してきた。両軍は沢州高平の巴公原(現在の山西省晋城市沢州県巴公鎮)で激突、序盤で自軍の一部が北漢に降り窮地に陥る。しかし、世宗自ら矢石を冒して督戦し、将軍趙匡胤の奮戦によって押し返し、北漢軍を撃破、逆に北漢の首都の太原を包囲した。この戦いでは北漢を滅ぼすまでは至らずに退却する。

節度使は、大きな軍事力、支配地に対する行政・財政権(軍民財の三権)を兼ねて持ち、軍閥化して独立・割拠の傾向が強く、五代を通じて戦乱の大きな原因となっていた。また後唐明宗の時に禁軍として侍衛司が整備されていたが、歴代の皇帝がこれを優遇しすぎたために、恩賞が約束されないと戦わない驕兵となっており、再編成のための老兵の解雇さえ困難だった。対して、柴栄は新たに殿前軍を編成し、節度使の配下から優秀な兵士を引き抜いて殿前軍に組み入れ、その指揮権を皇帝のみが持つようにした。こうして節度使の弱体化と禁軍の強化=皇帝権力の強化が達成された。

また廃仏令を出し、仏教勢力の力を弱め、法難と仏教側からは非難された(三武一宗の廃仏の4回目)。しかし、それまでの廃仏で多かれ少なかれ仏教と対抗する道教側からの示唆・介入があったのに対して、柴栄の廃仏は純粋に経済・国家統制上の観点からのものであり、税・兵役忌避を目的とした出家や資産の寺院への流出の防止、仏教勢力からの権益の獲得を狙いとした。これらによって増えた税収と没収財産は、軍事再編成の費用に当てられた。

また、の私有を禁じる法令を出した。これは当時の貨幣である銅貨を鋳造するためのものであり、当時は貨幣経済の発達と五代十国の分裂による銅生産地との断絶で、大幅に銅が不足していたからである。また廃仏令の一環として銅製の仏像を没収し、これも銅貨に鋳造しなおした。

さらに郭威以来の方針を受け継ぎ、租税の軽減や農村の復興を行った。また、『大周刑統』という国法を定めている。

統一事業

これらの蓄積を元に、柴栄は滅亡以来の統一を目指して奔走する。955年、初めに四川後蜀を攻めて秦州(現在の甘粛省天水市)を初めとする4州を奪った。

さらに同年の冬から、十国のうちでの最強国である南唐を攻める。南唐も激しく抵抗し、この戦いは3年にわたるが、958年に君主の李璟は降伏し、和睦の代償として南唐の長江以北の領土の割譲や、後周に対して南唐は皇帝号を廃して国主と名乗るなどといった条件を取り決めた。この淮河から長江に至る地域は、中国でも最大のの産地が含まれており、南唐の高い経済力はこの地があればこそと言っても過言ではなく、この地の占領はまさに南唐の生殺与奪権を握ったと同義であった。以後、南唐では自国内の塩の供給をまかなうことが出来ず、逆に後周から毎年30万石(17,800キロリットル)の援助を受けるようになる。

南唐を抑えた柴栄は、次に軍事的に最強の敵である北の契丹とその衛星国である北漢を相手取り、959年に燕雲十六州のうち、南寄りの莫州瀛州と寧州(唐末・北宋の乾寧軍、現在の河北省滄州市青県)・瓦橋関(後の雄州)・益津関(後の覇州)・淤口関(現在の河北省廊坊市覇州市信安鎮)の3州3関を奪取した。

さらに軍を北上させようと幽州へと入るが、柴栄はこの陣中で病に倒れ、開封へ引き返し、間もなく死去した。享年39。

死後

柴栄の後を継いだのはわずか7歳の息子の柴宗訓であった。しかし五代の先例に漏れず、すぐに軍内の兵士たちによる実力者擁立の動きが出てくる。それが柴栄に最も信頼された殿前都点検の趙匡胤である。軍部の推戴を受けた趙匡胤は柴宗訓より禅譲を受け、北宋を建てる。

殺伐とした戦乱の時代である五代十国時代では、前王朝の皇帝は殺されるのが通例であったが、柴宗訓は手厚く保護され、柴氏は南宋の滅亡まで実に約320年の間、勅命により優遇された。

子女

男子

  1. 越王 柴宗誼(北漢によって殺害された)
  2. 柴宗誠(早世のため不詳)
  3. 柴宗諴(早世のため不詳)
  4. 梁王 柴宗訓(恭帝)
  5. 曹王 柴熙譲
  6. 紀王 柴熙謹
  7. 蘄王 柴熙誨

元号

脚注

  1. ^ 岡田英弘『中国文明の歴史』講談社講談社現代新書〉、2004年12月18日、113頁。ISBN 978-4061497610 

参考文献

関連項目

先代
太祖
後周皇帝
第2代:954年 - 959年
次代
恭帝