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== 経歴 ==
== 経歴 ==
陸定国([[陸麗]]の子)と盧氏([[盧度世]]の娘)のあいだの子として生まれた。東郡王の爵位を嗣いだが、[[492年]]([[太和 (北魏)|太和]]16年)に東郡公に降封された。[[献文帝]]の娘の常山公主を妻に迎え、駙馬都尉に任じられ、通直郎の位を受けた。[[501年]]([[景明]]2年)、従叔の[[陸シュウ|陸琇]]の罪に連座して免官された。まもなく公主の婿であることから赦され、通直散騎常侍の位を受けた。しばらくして司徒司馬に転じ、輔国将軍の号を加えられ、[[エン州|兗州]][[刺史]]として出向した。まもなく安東将軍に進み、兗州での治績を知られて、[[青州 (山東省)|青州]]刺史に任じられた。寛容公平な統治で知られ、安北将軍・[[相州]]刺史に転じた。[[511年]]([[永平 (北魏)|永平]]4年)夏、死去した。鎮東将軍・[[冀州]]刺史の位を追贈された。[[諡]]は恵といった。
陸定国([[陸麗]]の子)と盧氏([[盧度世]]の娘)のあいだの子として生まれた。東郡王の爵位を嗣いだが、[[492年]]([[太和 (北魏)|太和]]16年)に東郡公に降封された。[[献文帝]]の娘の常山公主を妻に迎え、駙馬都尉に任じられ、通直郎の位を受けた。[[501年]]([[景明]]2年)、従叔の[[陸琇]]の罪に連座して免官された。まもなく公主の婿であることから赦され、通直散騎常侍の位を受けた。しばらくして司徒司馬に転じ、輔国将軍の号を加えられ、[[エン州|兗州]][[刺史]]として出向した。まもなく安東将軍に進み、兗州での治績を知られて、[[青州 (山東省)|青州]]刺史に任じられた。寛容公平な統治で知られ、安北将軍・[[相州]]刺史に転じた。[[511年]]([[永平 (北魏)|永平]]4年)夏、死去した。鎮東将軍・[[冀州]]刺史の位を追贈された。[[諡]]は恵といった。


正妻である常山公主とのあいだに3人の娘があったが、男子がなく、妾媵とのあいだにも女子しか生まれなかったため、従兄の陸希道の四男の[[陸子彰]]が後を嗣いだ。
正妻である常山公主とのあいだに3人の娘があったが、男子がなく、妾媵とのあいだにも女子しか生まれなかったため、従兄の陸希道の四男の[[陸子彰]]が後を嗣いだ。

2020年9月6日 (日) 04:23時点における版

陸 昕之(りく きんし、生年不詳 - 511年)は、北魏官僚は慶始。本貫河南郡洛陽県

経歴

陸定国(陸麗の子)と盧氏(盧度世の娘)のあいだの子として生まれた。東郡王の爵位を嗣いだが、492年太和16年)に東郡公に降封された。献文帝の娘の常山公主を妻に迎え、駙馬都尉に任じられ、通直郎の位を受けた。501年景明2年)、従叔の陸琇の罪に連座して免官された。まもなく公主の婿であることから赦され、通直散騎常侍の位を受けた。しばらくして司徒司馬に転じ、輔国将軍の号を加えられ、兗州刺史として出向した。まもなく安東将軍に進み、兗州での治績を知られて、青州刺史に任じられた。寛容公平な統治で知られ、安北将軍・相州刺史に転じた。511年永平4年)夏、死去した。鎮東将軍・冀州刺史の位を追贈された。は恵といった。

正妻である常山公主とのあいだに3人の娘があったが、男子がなく、妾媵とのあいだにも女子しか生まれなかったため、従兄の陸希道の四男の陸子彰が後を嗣いだ。

伝記資料