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'''田 以正'''(でん いせい、''Tian Yizheng''、? - [[1870年]])、[[清]]末の哀牢山の蜂起の指導者の一人。[[ハニ族]]。'''田四浪'''ともいう。 |
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[[雲南省]][[墨江ハニ族自治県|他郎]]出身。貧農出身であったが、[[1853年]]、ハニ族・[[イ族]]5千人を率いて蜂起し、[[新平イ族タイ族自治県|新平]]などに勢力を広げた。[[1858年]]、[[李文学]]が「彝家兵馬大元帥」を名乗って哀牢山地区で蜂起すると、李文学の配下の[[李学東]]と[[王泰階]]は田以正との連携を提案した。協議の結果、両軍は連合することになり、田以正は「彝家兵馬副元帥」に任命された。[[1859年]]に他郎を攻略し、[[1862年]]には他郎南部の通関哨を占領して[[普洱市|普洱]]・[[思茅区|思茅]]と[[昆明市|昆明]]との交通路を支配した。しかし[[1870年]]に通関哨は清軍の攻撃を受け、包囲を突破したものの、やがて捕えられ処刑された。田以正の死は李文学軍にとって大きなダメージであり、蜂起は[[1874年]]に鎮圧された。 |
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2020年9月3日 (木) 11:28時点における版
田 以正(でん いせい、Tian Yizheng、? - 1870年)、清末の哀牢山の蜂起の指導者の一人。ハニ族。田四浪ともいう。
雲南省他郎出身。貧農出身であったが、1853年、ハニ族・イ族5千人を率いて蜂起し、新平などに勢力を広げた。1858年、李文学が「彝家兵馬大元帥」を名乗って哀牢山地区で蜂起すると、李文学の配下の李学東と王泰階は田以正との連携を提案した。協議の結果、両軍は連合することになり、田以正は「彝家兵馬副元帥」に任命された。1859年に他郎を攻略し、1862年には他郎南部の通関哨を占領して普洱・思茅と昆明との交通路を支配した。しかし1870年に通関哨は清軍の攻撃を受け、包囲を突破したものの、やがて捕えられ処刑された。田以正の死は李文学軍にとって大きなダメージであり、蜂起は1874年に鎮圧された。
参考文献
- 謝啓晃・胡起望・莫俊卿編『中国少数民族歴史人物志』民族出版社