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== 滅亡 ==
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== 参考文献 ==
== 参考文献 ==

2020年9月3日 (木) 11:23時点における版

文郎国
Văn Lang
前2879年 - 前258年 甌雒
文郎国の位置
文郎国の推定領域(黄色)。
緑色は蜀の治めたナムクオン国
首都 峰州
雄王
前2879年 - ? 涇陽王
? - ?雄麟王
? - 前258年
変遷
建国 前2879年[1][2][3]
滅亡前258年[1][2][注 1]
現在 ベトナム
ベトナムの歴史
ベトナム語の『ベトナムの歴史』
文郎国
甌雒
南越
第一次北属期
前漢統治)
徴姉妹
第二次北属期
後漢六朝統治)
前李朝
第三次北属期
南漢統治)
呉朝
丁朝
前黎朝
李朝

陳朝
胡朝
第四次北属期
統治)
後陳朝
後黎朝前期
莫朝
後黎朝
後期
南北朝
莫朝
南北朝
後黎朝後期
阮氏政権 鄭氏政権
西山朝
阮朝
フランス領
インドシナ
ベトナム帝国
コーチシナ共和国 ベトナム
民主共和国
ベトナム国
ベトナム
共和国
南ベトナム
共和国
ベトナム社会主義共和国

文郎国(ぶんろうこく[3]、ヴァンランこく[4][5]ベトナム語Văn Lang / 文郞)は、半ば伝説とされるベトナム史上の国家。文郎(現在のフート省ベトチ市[1]を都とした[6]。中心は現在のフート省付近と推定されている[注 2]。ベトナム史上初の国家とされており[5][6]、紀元前2879年建国という考えから、ベトナム人の間では「ベトナム5千年の歴史」という言い回しが存在する。

考古学的背景

ベトナム北部では、青銅器文化ドンソン文化)の繁栄[7]を経て、石器や青銅器が発掘されているフングエン文化英語版が興り、その中で文郎国が形成されていったと推定される[8]

鴻龐氏と雄王

文郎国は鴻龐氏中国語版(ホンバン[5][注 3]氏、Hồng Bàng Thị)という氏族が治めたとされ[9]雄王英語版(フンヴォン[5]称号であり固有名ではない[1])と呼ばれる代々の支配者[4]によって統治されてきた[6]。伝説によれば、中国神話に見られる炎帝神農の3世孫である帝明の子、禄続(Lộc Tục)が南方に封じられて赤鬼国を治め(涇陽王)、涇陽王と洞庭君の娘の間に崇纜(スンラム、貉龍君龍君、駱龍君とも)を生んだ[10][11]。貉龍君(ラク・ロン・クァン)と天仙の女子・嫗姫の間に百越の元となる100人の子が(伝説では卵から)生まれ、その中の長男が雄王の名を受けた[6][10][12]。初代雄王はベトナム人の間では建国者としての扱いを受けている[6]

歴代雄王

雄王陵英語版(ヴィエトチ市)

18代の雄王が文郎国を治めた[13]グエン・カック・トゥアンベトナム語版の『Thế thứ các triều vua Việt Nam[注 4]では、雄王18代は涇陽王を初代と数えた下記とされている[14]。なお『ベトナム史略』では、涇陽王から数えると20人の雄王がいたとしている[9]

  1. 涇陽王 (Kinh Dương Vương)
  2. 雄賢王(Hùng Hiền vương貉龍君
  3. 雄麟王英語版Hùng Lân vương
  4. 雄曄王英語版Hùng Diệp vương
  5. 雄犧王英語版Hùng Hi vương
  6. 雄暉王英語版Hùng Huy vương
  7. 雄昭王ベトナム語版Hùng Chiêu vương
  8. 王(Hùng Vĩ vương
  9. 雄定王(Hùng Định vương
  10. 雄曦王(Hùng Hi vương
  11. 雄楨王(Hùng Trinh vương
  12. 雄武王(Hùng Vũ vương
  13. 雄越王(Hùng Việt vương
  14. 雄英王(Hùng Anh vương
  15. 雄朝王(Hùng Triêu vương
  16. 雄造王(Hùng Tạo vương
  17. 雄毅王ベトナム語版Hùng Nghị vương
  18. 英語版Hùng Duệ vương

領土

文郎国は交趾朱䳒武寧ベトナム語版・福禄・越裳寧海・陽泉・陸海ベトナム語版武定中国語版咸驩中国語版九真・平文・新興中国語版九徳中国語版文郎の15の部[1][13]に分かれていたとされる[9]。諸説あるが、『嶺南中国語版』では東は南海、西は巴蜀中国語版、北は洞庭湖、南は猢猻精国ベトナム語版まで広がっていたという[10]。『ベトナム史略』では南は現在のクアンチ省から北はカオバン省まで広がっていたとしている[9]

滅亡

18代雄王の代の前258年、文郎国は西甌(タイオウ)[注 5]蜀泮によって滅ぼされた[15][16]。文郎国併合後に蜀は安陽王を称し、国号を甌雒[注 6]とした[15][16]

参考文献

  • チャン・チョン・キム(ベトナム語)『ベトナム史略ベトナム教育訓練省英語版出版学寮センター。 
  • 小倉貞男『物語ヴェトナムの歴史 一億人国家のダイナミズム』〈中公新書〉1996年。ISBN 4-12-101372-7 
  • 石井米雄桜井由躬雄編 編『東南アジア史 I 大陸部』山川出版社〈新版 世界各国史 5〉、1999年12月20日。ISBN 978-4634413504 
  • 桐山昇栗原浩英根本敬編 編『東南アジアの歴史―人・物・文化の交流史』有斐閣〈世界に出会う各国=地域史〉、2003年9月30日。ISBN 978-4641121928 
  • レイ・タン・コイベトナム語版 著、石澤良昭 訳『東南アジア史』(増補新版)白水社文庫クセジュ〉、2000年4月30日。ISBN 978-4560058268 
  • 桃木至朗『歴史世界としての東南アジア』山川出版社〈世界史リブレット12〉、1996年12月25日。ISBN 978-4-63-434120-3 
  • グエン・カック・トゥアン(ベトナム語)『Thế thứ các triều vua Việt Nam教育出版社ベトナム語版、2008年。 

※日本語文献でベトナム語の綴り・漢字表記が示されていないものは、中国語版Wikipedia及びベトナム語版Wikipediaを参考に補った。

出典

  1. ^ a b c d e 大越史記全書』外紀巻之一 鴻厖氏紀 雄王
  2. ^ a b チャン・チョン・キム, p. 245, 付属歴史年表
  3. ^ a b 『東南アジアの歴史―人・物・文化の交流史』47頁
  4. ^ a b 新田栄治「先史時代」『東南アジア史 I 大陸部』、37頁。 
  5. ^ a b c d レイ・タン・コイ, p. 18
  6. ^ a b c d e 小倉, pp. 14–16
  7. ^ 桃木, pp. 11–12
  8. ^ 小倉, pp. 28–29
  9. ^ a b c d チャン・チョン・キム, pp. 8–10
  10. ^ a b c 『嶺南怪』巻之一 鴻龐氏伝
  11. ^ 『大越史記全書』外紀巻之一 鴻厖氏紀 涇陽王
  12. ^ 『大越史記全書』外紀巻之一 鴻厖氏紀 貉龍君
  13. ^ a b 越史略中国語版』巻上 国初沿革
  14. ^ グエン・カック・トゥアン, pp. 14–15
  15. ^ a b 『大越史記全書』外紀巻之一 蜀紀 安陽王
  16. ^ a b 小倉, p. 21

注釈

  1. ^ 西暦と農暦によりずれがある。『ベトナム史略』の本文では、紀元前258年の前年である癸卯の年に滅んだとされ、小倉(1996)では紀元前258年、新田(1999)では紀元前257年に滅亡としている。
  2. ^ 小倉(1996)では「ヴィンフー省のフングエン、ドンダウ、ゴムンの遺跡から(中略)雄王はこのヴィンフー省でヴェトナムの建国を行ったと推測されている」としている。ヴィンフー省中国語版は1996年11月26日にヴィンフック省とフート省に分割された。フングエン文化は現在のフート省ラムタオ県キンケー社ベトナム語版に、ドンダウ文化英語版はヴィンフック省イエンラック県イエンラック市鎮ベトナム語版ゴムン文化英語版は現在のフート省ラムタオ県トゥーサー社ベトナム語版にあたる。
  3. ^ 『大越史記全書』、小倉(1996)およびレイ・タン・コイの著書ではホンバンに「鴻厖」の字を当てている。
  4. ^ 『越南各王世庶』の意か。
  5. ^ タイー族の伝承によると、西甌はこの頃ナムクオン国となっていたともされる。
  6. ^ 小倉(1996)では「甌貉」としている。