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[[660年]]([[義慈王]]20年・[[新羅]][[武烈王]]7年)<ref name="newly" />、百済が[[新羅]]・[[唐]]連合軍に滅ぼされると、百済の将軍であった[[鬼室福信]]と共に<ref name="newly" />、[[倭国]]([[日本]])に人質として行っていた王子の[[扶余豊璋|扶余豊]]を王に推戴して[[周留城]]を根拠に<ref name="newly" />反旗を翻し<ref name="dochim" />、復興運動に火をつけた<ref name="wontack">{{Cite book |last=洪 |first=元卓 |author= |authorlink=:ko:홍원탁 |coauthors= |year=1994 |title=Paekche of Korea and the Origin of Yamato Japan |location=ソウル |publisher=Kudara International |language=en |page= |id= |isbn= |quote= }}</ref>。自らは領車将軍と称し<ref name="newly" /><ref name="dochim" />、福信は霜岑将軍と称し<ref name="newly" />、若干の日本の援助と共に、百済軍の残余と<ref name="wontack" />遺民を糾合して<ref name="dochim" />新羅・唐連合軍への一連の攻撃を繰り広げて<ref name="wontack" />気勢を轟かせたが、内紛が起こって道琛は福信によって殺害され<ref name="newly" /><ref name="dochim" /><ref name="wontack" />、福信はまた扶余豊に殺された<ref name="newly" /><ref name="wontack" />。このとき、唐の将軍[[劉仁軌]]が、[[劉仁願]]を援けてこれを討つと<ref name="newly" />、復興運動は[[白村江の戦い|白江の戦い]]の後まもなく崩壊し<ref name="wontack" />、扶余豊は高句麗へ逃亡{{Sfn|小和田泰経|2012|p=182}}、百済は完全に滅亡した<ref name="newly" />。 |
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歴史研究家の[[小和田泰経]]は、経歴不詳で謎の多い道琛について「百済復興軍を率いた怪僧」と評し、百済を滅ぼした後の唐軍が{{Sfn|小和田泰経|2012|p=244|loc=「朝鮮三国志列伝 百済」}}、名将として名高い[[蘇定方]]率いる主力を[[高句麗#唐と高句麗の滅亡|高句麗討伐]]のために帰還させていた隙を衝いて{{Sfn|小和田泰経|2012|p=244|loc=「朝鮮三国志列伝 百済」}}{{Sfn|小和田泰経|2012|p=166}}、武烈王の子[[金仁泰 (新羅)|金仁泰]]率いる新羅7000名・劉仁願率いる唐1万名あまりの連合軍{{Sfn|小和田泰経|2012|p=166}}が駐留する[[泗 |
歴史研究家の[[小和田泰経]]は、経歴不詳で謎の多い道琛について「百済復興軍を率いた怪僧」と評し、百済を滅ぼした後の唐軍が{{Sfn|小和田泰経|2012|p=244|loc=「朝鮮三国志列伝 百済」}}、名将として名高い[[蘇定方]]率いる主力を[[高句麗#唐と高句麗の滅亡|高句麗討伐]]のために帰還させていた隙を衝いて{{Sfn|小和田泰経|2012|p=244|loc=「朝鮮三国志列伝 百済」}}{{Sfn|小和田泰経|2012|p=166}}、武烈王の子[[金仁泰 (新羅)|金仁泰]]率いる新羅7000名・劉仁願率いる唐1万名あまりの連合軍{{Sfn|小和田泰経|2012|p=166}}が駐留する[[泗沘]]を包囲した際{{Sfn|小和田泰経|2012|p=244|loc=「朝鮮三国志列伝 百済」}}、劉仁軌が応援に駆け付けたが、その使者への対応を一切突っぱねて追い返したということから、それだけの勢力を保持していたものの、それがあだとなって鬼室福信に暗殺されたと推測している{{Sfn|小和田泰経|2012|p=244|loc=「朝鮮三国志列伝 百済」}}。 |
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== 道琛が登場した作品 == |
== 道琛が登場した作品 == |
2020年9月3日 (木) 11:22時点における版
道琛 | |
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各種表記 | |
ハングル: | 도침 |
漢字: | 道琛 |
発音: | トチム |
日本語読み: | どうちん |
文化観光部2000年式: マッキューン=ライシャワー式: |
Dochim Toch'im |
道琛(どうちん、生年不詳 - 661年)は、百済滅亡直後の百済復興運動に蹶起した僧[1][2][3]。
生涯
660年(義慈王20年・新羅武烈王7年)[1]、百済が新羅・唐連合軍に滅ぼされると、百済の将軍であった鬼室福信と共に[1]、倭国(日本)に人質として行っていた王子の扶余豊を王に推戴して周留城を根拠に[1]反旗を翻し[2]、復興運動に火をつけた[4]。自らは領車将軍と称し[1][2]、福信は霜岑将軍と称し[1]、若干の日本の援助と共に、百済軍の残余と[4]遺民を糾合して[2]新羅・唐連合軍への一連の攻撃を繰り広げて[4]気勢を轟かせたが、内紛が起こって道琛は福信によって殺害され[1][2][4]、福信はまた扶余豊に殺された[1][4]。このとき、唐の将軍劉仁軌が、劉仁願を援けてこれを討つと[1]、復興運動は白江の戦いの後まもなく崩壊し[4]、扶余豊は高句麗へ逃亡[5]、百済は完全に滅亡した[1]。
歴史研究家の小和田泰経は、経歴不詳で謎の多い道琛について「百済復興軍を率いた怪僧」と評し、百済を滅ぼした後の唐軍が[3]、名将として名高い蘇定方率いる主力を高句麗討伐のために帰還させていた隙を衝いて[3][6]、武烈王の子金仁泰率いる新羅7000名・劉仁願率いる唐1万名あまりの連合軍[6]が駐留する泗沘を包囲した際[3]、劉仁軌が応援に駆け付けたが、その使者への対応を一切突っぱねて追い返したということから、それだけの勢力を保持していたものの、それがあだとなって鬼室福信に暗殺されたと推測している[3]。
道琛が登場した作品
脚注
- ^ a b c d e f g h i j 「ㄷ」(朝鮮語)『增補 새國史事典 (ENCYCLOPEDIA OF KOREAN HISTORY [증보] 새 국사사전)』(増補1版12刷)敎學社、ソウル、1996年。ISBN 8909005068。
- ^ a b c d e (朝鮮語) グローバル世界大百科事典/人名事典/韓国人名/ㄷ#道琛, ウィキソースより閲覧。
- ^ a b c d e 小和田泰経 2012, p. 244, 「朝鮮三国志列伝 百済」.
- ^ a b c d e f 洪, 元卓 (1994) (英語). Paekche of Korea and the Origin of Yamato Japan. ソウル: Kudara International
- ^ 小和田泰経 2012, p. 182.
- ^ a b 小和田泰経 2012, p. 166.
参考文献
- 小和田泰経『朝鮮三国志 高句麗・百済・新羅の300年戦争』新紀元社〈Truth In History 27〉、2012年。ISBN 9784775310519。
この記述には、ダウムからGFDLまたはCC BY-SA 3.0で公開される百科事典『グローバル世界大百科事典』をもとに作成した内容が含まれています。