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'''睦'''(ぼく、{{lang|ko|목}}: モク)氏は、[[朝鮮人の名前|朝鮮人の姓氏]]の一つである。2015年、[[大韓民国]][[統計庁]]の人口住宅総調査で8848名と調査され、韓国姓氏人口順位113位である。
'''睦'''(ぼく、{{lang|ko|목}}: モク)氏は、[[朝鮮人の名前|朝鮮人の姓氏]]の一つである。2015年、[[大韓民国]][[統計庁]]の人口住宅総調査で8848名と調査され、韓国姓氏人口順位113位である。


文献に伝わる本貫は[[泗川睦氏]]を始めとして、水原・南平・慶州・泰仁・桂陽・沃川・全州・多仁(醴泉)の9本があるが、現存する貫郷は[[泗|泗川]]睦氏[[#氏族|単本]]である<ref name="seishi-a">[[#rekishi|金鎮宇 『韓国人の歴史』(2010), p.261]]</ref>。高麗朝で門下賛成事の{{仮リンク|睦仁吉|ko|목인길}}・[[睦忠]]・[[睦子安]]らが栄達していて、[[朝鮮]]朝では[[左議政]]・[[右議政]]に昇った{{仮リンク|睦来善|ko|목내선}}ら、泗川睦氏は朝鮮時代、科挙及第者132名、文科及第34名を輩出(現在、人口千名あたり及第者数1位の姓氏)、[[堂上官]]は21名を輩出することで、もって名門大家の地位を維持していった。
文献に伝わる本貫は[[泗川睦氏]]を始めとして、水原・南平・慶州・泰仁・桂陽・沃川・全州・多仁(醴泉)の9本があるが、現存する貫郷は[[泗|泗川]]睦氏[[#氏族|単本]]である<ref name="seishi-a">[[#rekishi|金鎮宇 『韓国人の歴史』(2010), p.261]]</ref>。高麗朝で門下賛成事の{{仮リンク|睦仁吉|ko|목인길}}・[[睦忠]]・[[睦子安]]らが栄達していて、[[朝鮮]]朝では[[左議政]]・[[右議政]]に昇った{{仮リンク|睦来善|ko|목내선}}ら、泗川睦氏は朝鮮時代、科挙及第者132名、文科及第34名を輩出(現在、人口千名あたり及第者数1位の姓氏)、[[堂上官]]は21名を輩出することで、もって名門大家の地位を維持していった。


=== 著名な人物 ===
=== 著名な人物 ===

2020年9月3日 (木) 11:22時点における版

(ぼく)は、漢姓の一つ。

中国の姓

各種表記
繁体字
簡体字
拼音
注音符号 ㄇㄨˋ
ラテン字 Mu
広東語発音: Muk6
上海語発音: Moh4
台湾語白話字 Bo̍k
英文 Mu, Muh[1]
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(ぼく、Mù)は、漢姓の一つである。

出自

筆頭に挙げられるのは、陳士元の『姓觿』に拠って、古の帝である 氏(栗陸氏とも称する)の後裔である、というものである[1]。この説は、日中民族科学研究所編 『中国姓氏事典』(1983[1978])でも「上古、栗陸氏の子孫がこの姓を伝えた。」と述べている[2]。次に挙げられているのが、胡姓(西方の異民族由来の姓氏)というもので、『中国姓氏事典』(1983[1978])でも「一説には西方の胡姓であるという。」と言い[2]『中国姓氏大辞典』(2010)でも「【源出】」の②として挙げられており、こちらでは具体的に「②西胡の姓、『古今姓氏書弁証』に見える。唐の時、涼州の胡 睦伽佗が侵攻をした」と記している。『中国姓氏大辞典』(2010)は更に、特定の民族の姓氏として「【民族】」の欄に「朝鮮族の姓」と記している(→#朝鮮の姓[1]

郡望

[1]

分布

やや幅広く分布しており、おおよそ全国人口の0.0009%を占め、四川省寧夏回族自治区吉林省重慶市の四つの省と自治区と市にこの姓が多く、全国の睦姓人口の約89%を占める[1]。吉林省に多いのは、地理的に朝鮮半島に接しており、歴史的に朝鮮民族が多いためである。現に吉林省には延辺朝鮮族自治州長白朝鮮族自治県がある。この地域の朝鮮民族の居住については間島を参照。

著名な人物

朝鮮の姓

ぼく
各種表記
ハングル
漢字
発音: モク
日本語読み: ぼく
ローマ字 Mok
英語表記: Mok, Mok, Mock, Mog, Muk, Mork
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(ぼく、: モク)氏は、朝鮮人の姓氏の一つである。2015年、大韓民国統計庁の人口住宅総調査で8848名と調査され、韓国姓氏人口順位113位である。

文献に伝わる本貫は泗川睦氏を始めとして、水原・南平・慶州・泰仁・桂陽・沃川・全州・多仁(醴泉)の9本があるが、現存する貫郷は泗川睦氏単本である[3]。高麗朝で門下賛成事の睦仁吉朝鮮語版睦忠睦子安らが栄達していて、朝鮮朝では左議政右議政に昇った睦来善朝鮮語版ら、泗川睦氏は朝鮮時代、科挙及第者132名、文科及第34名を輩出(現在、人口千名あたり及第者数1位の姓氏)、堂上官は21名を輩出することで、もって名門大家の地位を維持していった。

著名な人物

起源

睦氏の起源については三説が存在する。

  • 最初、睦氏の記録は百済の王族である扶余氏を始め、百済の貴族姓氏に沙氏・燕氏・刕氏・解氏・真氏・貞氏・国氏・木氏・苩氏などが大姓八族として『隋書』と『新唐書』等に記録されている。倭国の沙至比跪伽耶を侵攻して加羅国王己本旱岐と息子百久至・阿首至・国沙利・伊羅麻酒・爾汶至らが百済に逃亡するやいなや、木羅斤資が軍隊を率いて出ていって救援した。『日本書紀』の記録に推し量ってみて、睦氏は百済-伽耶の交流が成り立とうとするや、その過程で勢力を伸ばして出てきたものと見えながら、伽耶地方の小国たちが深い連関を結んでいた。泗川は百済に属してから、6世紀の法興王の時、新羅に征服された地域である。その他に、百済の名のない武将木満致将軍が有名である。百済が滅亡した後、百済の姓氏が消滅させられるか変姓させられた。百済王族である扶余氏は消滅し、扶余徐氏朝鮮語版余氏などに変姓させられ、木氏は睦氏に変姓させられたという。以後、行列と世系が高麗時代以前までは分明でなく、高麗時代、再び政界に登場した睦孝基朝鮮語版を始祖とする。
  • 泗川睦氏の家乗[* 1]には兄弟の友愛が深く仲睦まじいを意味する「睦」を姓氏として賜ったという兄弟相睦説が伝承される。この説話を間接的に裏付けする古典小説として『睦始竜伝』がある。
  • 641年(高句麗栄留王22年)、栄留王の要請によって唐の八学士である睦沖・洪天河・殷世通・魏齢・房丕・奇牟・吉寧・奉守賢の八名の学者が留学と文化交流のため、高句麗に派遣されたという。以後、淵蓋蘇文の乱により、新羅に身を避けて、泗川地域に世居したという。

しかし、金鎮宇は『韓国人の歴史』(2010)で、睦氏は元来、中国の趙郡(現在の河北省石家荘市)から出世した姓氏であるという説を述べている[3]。この説に従えば、上述の「中国の姓」の#著名な人物として挙げられている睦予が始祖、あるいは係累であることが示唆される。

氏族

今日、本貫は泗川睦氏のみで始祖は高麗の時郎将であった睦孝基である。特に朝鮮中期には多くの人物を輩出した。

人口と割合

年度 人口 世帯数 順位 割合
1930年 - 659世帯 250姓中112位
1960年 4,167人  258姓中113位
1985年 7,088人 1,721世帯 285姓中114位
2000年 8,191人 2,493世帯 286姓中116位
2015年 8,848人   113位

脚注

注釈

  1. ^ 族譜の別名。

出典

  1. ^ a b c d e f 袁義達・邱家儒(2010) 中国姓氏大辞典, 1343頁「睦 mù」。
  2. ^ a b 日中民族科学研究所編(1983[1978]) 『中国姓氏事典』、226頁「817【睦】 ボク mu」:「上古、栗陸氏の子孫がこの姓を伝えた。一説には西方の胡姓であるという。」〔原文の傍点は、太字に変えた〕
  3. ^ a b 金鎮宇 『韓国人の歴史』(2010), p.261

参考文献

  • 袁義達; 邱家儒 (2010) (中国語). 中国姓氏大辞典 (1st ed.). 南昌市: 江西人民出版社. ISBN 978-7-210-04407-9 
  • 日中民族科学研究所 編『中国姓氏事典』(第2刷(1983年))国書刊行会、1978年。ISBN 978-4336013903 
  • (朝鮮語)『한구인 역사(韓国人の歴史)』(第3刷)図書出版 春秋筆法(도서출판 춘추필법 )大田、2010年。ISBN 9788996301202 

関連項目