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'''劉 肇鈞'''(りゅう ちょうきん、''Liu Zhanjun''、? - [[1865年]])は、[[太平天国]]の指導者の一人。
'''劉 肇鈞'''(りゅう ちょうきん、''Liu Zhanjun''、? - [[1865年]])は、[[太平天国]]の指導者の一人。


[[広西省]]出身。[[金田蜂起]]に参加。[[1860年]]、忠王[[李秀成]]の[[蘇州市|蘇州]]攻略に従った。太平天国が蘇州周辺に蘇福省を設置すると、民政全般を担当。[[1861年]]、逢天安となり、さらに逢天義に昇進した。[[1862年]]、忠逢朝将となり、凛王に封じられた。[[1863年]]、[[昆山市|昆山]]の守備につき、[[清]]軍や[[常勝軍]]をしばしば打ち破った。[[1864年]]、食糧確保のために[[江西省]]に進軍したが、都の[[南京市|天京]]が陥落したため、侍王[[李世賢]]に従って[[福建省]]に入った。李世賢は[[ショウ州市|漳州]]を占領し、劉肇鈞は[[ショウ浦県|漳浦]]の守りを任された。しかし[[1865年]]に李世賢が漳州を撤退するのに合わせて、劉肇鈞は漳浦を撤退しようとしたが、清軍に包囲されて自殺した。
[[広西省]]出身。[[金田蜂起]]に参加。[[1860年]]、忠王[[李秀成]]の[[蘇州市|蘇州]]攻略に従った。太平天国が蘇州周辺に蘇福省を設置すると、民政全般を担当。[[1861年]]、逢天安となり、さらに逢天義に昇進した。[[1862年]]、忠逢朝将となり、凛王に封じられた。[[1863年]]、[[昆山市|昆山]]の守備につき、[[清]]軍や[[常勝軍]]をしばしば打ち破った。[[1864年]]、食糧確保のために[[江西省]]に進軍したが、都の[[南京市|天京]]が陥落したため、侍王[[李世賢]]に従って[[福建省]]に入った。李世賢は[[ショウ州市|漳州]]を占領し、劉肇鈞は[[浦県|漳浦]]の守りを任された。しかし[[1865年]]に李世賢が漳州を撤退するのに合わせて、劉肇鈞は漳浦を撤退しようとしたが、清軍に包囲されて自殺した。


==参考文献==
==参考文献==

2020年9月3日 (木) 11:18時点における版

劉 肇鈞(りゅう ちょうきん、Liu Zhanjun、? - 1865年)は、太平天国の指導者の一人。

広西省出身。金田蜂起に参加。1860年、忠王李秀成蘇州攻略に従った。太平天国が蘇州周辺に蘇福省を設置すると、民政全般を担当。1861年、逢天安となり、さらに逢天義に昇進した。1862年、忠逢朝将となり、凛王に封じられた。1863年昆山の守備につき、軍や常勝軍をしばしば打ち破った。1864年、食糧確保のために江西省に進軍したが、都の天京が陥落したため、侍王李世賢に従って福建省に入った。李世賢は漳州を占領し、劉肇鈞は漳浦の守りを任された。しかし1865年に李世賢が漳州を撤退するのに合わせて、劉肇鈞は漳浦を撤退しようとしたが、清軍に包囲されて自殺した。

参考文献

  • 羅爾綱『太平天国史』中華書局