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[[581年]]([[開皇]]元年)、隋が建国されると、法尚は[[岳陽市|巴州]]刺史に任じられ、三鵶の少数民族を鉄山で撃破した。さらに柱国の[[王誼 (隋)|王誼]]に従って陳の攻撃を撃退した。[[衡州]]総管・四州諸軍事に転じ、譙郡公に改封された。後に文帝(楊堅)が洛陽に行幸すると、法尚は召し出されて引見を受け、綾絹や良馬や奴婢を賜った。[[586年]](開皇6年)<ref>『隋書』高祖紀上および『北史』隋本紀上</ref>、[[黄州]]総管に転じた。文帝の密命により、江南の経略を準備し、情勢を調査した。[[589年]](開皇9年)、大軍による陳に対する南征がおこなわれると、法尚は行軍総管として秦王[[楊俊 (隋)|楊俊]]に属し、水軍3万を率いて樊口に進出した。陳の城州刺史の熊門超が出兵して抗戦すると、法尚は熊門超の軍を撃破して、かれを捕らえた。法尚は[[鄂州]]刺史に転じ、まもなく黄州兵3500人を率いたまま[[永州]]総管に転じた。陳の[[桂州]]刺史銭季卿・[[南康郡]][[内史]]柳璿・西衡州刺史鄧暠・[[陽山郡]][[太守]]毛爽らが前後して法尚のもとを訪れて降った。陳の定州刺史の呂子廓が山洞に拠って反抗したが、法尚が兵を率いて山越えすると、呂子廓は逃走の末に部下に斬られた。[[590年]](開皇10年)、桂州総管に転じ、嶺南安撫大使となった。
[[581年]]([[開皇]]元年)、隋が建国されると、法尚は[[岳陽市|巴州]]刺史に任じられ、三鵶の少数民族を鉄山で撃破した。さらに柱国の[[王誼 (隋)|王誼]]に従って陳の攻撃を撃退した。[[衡州]]総管・四州諸軍事に転じ、譙郡公に改封された。後に文帝(楊堅)が洛陽に行幸すると、法尚は召し出されて引見を受け、綾絹や良馬や奴婢を賜った。[[586年]](開皇6年)<ref>『隋書』高祖紀上および『北史』隋本紀上</ref>、[[黄州]]総管に転じた。文帝の密命により、江南の経略を準備し、情勢を調査した。[[589年]](開皇9年)、大軍による陳に対する南征がおこなわれると、法尚は行軍総管として秦王[[楊俊 (隋)|楊俊]]に属し、水軍3万を率いて樊口に進出した。陳の城州刺史の熊門超が出兵して抗戦すると、法尚は熊門超の軍を撃破して、かれを捕らえた。法尚は[[鄂州]]刺史に転じ、まもなく黄州兵3500人を率いたまま[[永州]]総管に転じた。陳の[[桂州]]刺史銭季卿・[[南康郡]][[内史]]柳璿・西衡州刺史鄧暠・[[陽山郡]][[太守]]毛爽らが前後して法尚のもとを訪れて降った。陳の定州刺史の呂子廓が山洞に拠って反抗したが、法尚が兵を率いて山越えすると、呂子廓は逃走の末に部下に斬られた。[[590年]](開皇10年)、桂州総管に転じ、嶺南安撫大使となった。


数年後に入朝し、本官のまま宿衛をつとめた。[[597年]](開皇17年)、桂州の李光仕が挙兵して反乱を起こすと、法尚は上柱国の[[王世積]]とともに反乱を討つよう命じられた。法尚は桂州におもむいて嶺南の兵を動員し、王世積は[[岳州]]に出て嶺北の軍を召集して、両者は[[鬱州|尹州]]で合流した。李光仕が迎撃してくると、法尚らは戦ってこれを撃破した。王世積の部下たちの多くが疫病に罹患して進めなくなり、衡州にとどまったので、法尚の軍が単独で反乱軍を討つこととなった。李光仕は強健な兵を率いて白石洞を守っていたが、法尚はその弟の李光略や李光度を捕らえ、大勢の捕虜を得た。降伏した反乱兵には、妻子を帰してやった。わずかな時日で降伏する者は数千人に及んだ。法尚は兵を派遣して部隊を整列させ李光仕に当たらせる一方、自らは奇兵を率いて、藪林の中に伏兵を置いた。両軍が会戦すると、法尚は反乱軍の柵の中に討ち入り、柵の中の反乱兵はみな逃げ散った。李光仕は大敗して、敗走中に斬られた。[[仁寿 (隋)|仁寿]]年間、[[遂州]]の獠が反抗すると、法尚は行軍総管として反乱を鎮圧した。[[嶲州|巂州]]の烏蛮が反乱を起こして、州城を攻め落とすと、法尚は勅命を受けて反乱を討つこととなった。法尚の軍が巂州に到着すると、烏蛮は州城を放棄して、ばらばらに山谷の間に潜伏したため、法尚は捕捉することができなかった。そこで使者を派遣して烏蛮に説諭し、仮の官号を与え、偽って軍を返した。日に20里行って、軍を宿営させ、ひそかに人を派遣して烏蛮を偵察させた。首領たちは潜伏するのをやめて柵に帰り、集合して宴飲していた。法尚は数千人の兵を選抜して、烏蛮の柵を襲撃し、撃破して渠帥数千人を捕らえ、男女1万人あまりを捕虜にした。凱旋すると、検校[[ロ州|潞州]]事となった。
数年後に入朝し、本官のまま宿衛をつとめた。[[597年]](開皇17年)、桂州の李光仕が挙兵して反乱を起こすと、法尚は上柱国の[[王世積]]とともに反乱を討つよう命じられた。法尚は桂州におもむいて嶺南の兵を動員し、王世積は[[岳州]]に出て嶺北の軍を召集して、両者は[[鬱州|尹州]]で合流した。李光仕が迎撃してくると、法尚らは戦ってこれを撃破した。王世積の部下たちの多くが疫病に罹患して進めなくなり、衡州にとどまったので、法尚の軍が単独で反乱軍を討つこととなった。李光仕は強健な兵を率いて白石洞を守っていたが、法尚はその弟の李光略や李光度を捕らえ、大勢の捕虜を得た。降伏した反乱兵には、妻子を帰してやった。わずかな時日で降伏する者は数千人に及んだ。法尚は兵を派遣して部隊を整列させ李光仕に当たらせる一方、自らは奇兵を率いて、藪林の中に伏兵を置いた。両軍が会戦すると、法尚は反乱軍の柵の中に討ち入り、柵の中の反乱兵はみな逃げ散った。李光仕は大敗して、敗走中に斬られた。[[仁寿 (隋)|仁寿]]年間、[[遂州]]の獠が反抗すると、法尚は行軍総管として反乱を鎮圧した。[[嶲州|巂州]]の烏蛮が反乱を起こして、州城を攻め落とすと、法尚は勅命を受けて反乱を討つこととなった。法尚の軍が巂州に到着すると、烏蛮は州城を放棄して、ばらばらに山谷の間に潜伏したため、法尚は捕捉することができなかった。そこで使者を派遣して烏蛮に説諭し、仮の官号を与え、偽って軍を返した。日に20里行って、軍を宿営させ、ひそかに人を派遣して烏蛮を偵察させた。首領たちは潜伏するのをやめて柵に帰り、集合して宴飲していた。法尚は数千人の兵を選抜して、烏蛮の柵を襲撃し、撃破して渠帥数千人を捕らえ、男女1万人あまりを捕虜にした。凱旋すると、検校[[潞州]]事となった。


[[604年]](仁寿4年)、[[煬帝]]が即位すると、法尚は[[雲州]]刺史に転じた。3年後、[[定襄郡]]太守に転じ、位を金紫光禄大夫に進めた。[[607年]]([[大業]]3年)、煬帝が[[楡林市|楡林]]に行幸すると、法尚は行宮に参朝し、内史令の[[元寿 (隋)|元寿]]と北方の防衛策について議論した。煬帝の賞賛を受けて左武衛将軍に任じられた。
[[604年]](仁寿4年)、[[煬帝]]が即位すると、法尚は[[雲州]]刺史に転じた。3年後、[[定襄郡]]太守に転じ、位を金紫光禄大夫に進めた。[[607年]]([[大業]]3年)、煬帝が[[楡林市|楡林]]に行幸すると、法尚は行宮に参朝し、内史令の[[元寿 (隋)|元寿]]と北方の防衛策について議論した。煬帝の賞賛を受けて左武衛将軍に任じられた。

2020年9月3日 (木) 11:12時点における版

周法尚(しゅう ほうしょう、556年 - 614年)は、南朝陳からにかけての軍人は徳邁。本貫汝南郡安成県

経歴

周炅の子として生まれた。若くして大胆で強力であり、人品にすぐれ、兵書を読むのを好んだ。18歳で陳の始興王中兵参軍となり、ほどなく伏波将軍の号を加えられた。576年太建8年)に父が死去した後、監定州事となり、父の監督していた兵を引き継いだ。たびたび戦功があって、使持節・貞毅将軍・散騎常侍の位を受け、行斉昌郡事をつとめ、山陰県侯に封じられた。兄の武昌県公周法僧に代わって定州刺史となった。

法尚は長沙王陳叔堅と仲が悪く、反乱を計画していると陳叔堅に誣告された。このため陳の宣帝が周法僧を拘禁し、兵を発して法尚を捕らえようとした。法尚の部下たちが北周に亡命するよう勧め、法尚はなおもためらっていたが、長史の殷文則の説得を受け入れて、北周に帰順した。北周の宣帝は法尚を優遇し、開府・順州刺史に任じ、帰義県公に封じた。陳の将軍の樊猛長江を渡って法尚を攻撃してきたが、法尚はいつわって部下の韓明を陳に降伏させ、「法尚の部下たちは北に降るのを望んでおらず、法尚のもとを離反して江南に帰りたいとひそかに議論しています」と樊猛に吹き込ませた。樊猛が軍を率いて急進すると、法尚はあわてたふりをして江曲を守った。樊猛が兵を並べて挑戦すると、法尚は先に軽舸を浦中に伏せ、さらに精鋭を古村の北に伏せて、自らは旗幟を張って長江の線で迎撃する態勢を取った。数度の戦闘の後、偽って北岸に撤退し、古村に入った。樊猛が舟を置いて追撃してくると、法尚は村北に伏せていた軍と合流し、再び樊猛に反撃した。樊猛は退却して舟に向かったが、すでに浦中に伏せていた軽舸の部隊が舟を奪取して、周の旗幟を立てていた。樊猛はこれによって大敗し、単身で逃走した。

580年大象2年)、楊堅が北周の丞相となり、司馬消難が反乱を起こすと、上開府の段珣が順州の守備を助ける名目で兵を率いてやってきた。法尚がその偽りを看破して、城門を閉ざして入れなかったため、段珣は順州を包囲した。法尚は吏士500人を率いて20日にわたって城を守ったが、外からの救援もなく、支えることができなくなると、城を捨てて逃走した。司馬消難は法尚の同母弟や一族ら300人を捕らえて陳に帰順した。

581年開皇元年)、隋が建国されると、法尚は巴州刺史に任じられ、三鵶の少数民族を鉄山で撃破した。さらに柱国の王誼に従って陳の攻撃を撃退した。衡州総管・四州諸軍事に転じ、譙郡公に改封された。後に文帝(楊堅)が洛陽に行幸すると、法尚は召し出されて引見を受け、綾絹や良馬や奴婢を賜った。586年(開皇6年)[1]黄州総管に転じた。文帝の密命により、江南の経略を準備し、情勢を調査した。589年(開皇9年)、大軍による陳に対する南征がおこなわれると、法尚は行軍総管として秦王楊俊に属し、水軍3万を率いて樊口に進出した。陳の城州刺史の熊門超が出兵して抗戦すると、法尚は熊門超の軍を撃破して、かれを捕らえた。法尚は鄂州刺史に転じ、まもなく黄州兵3500人を率いたまま永州総管に転じた。陳の桂州刺史銭季卿・南康郡内史柳璿・西衡州刺史鄧暠・陽山郡太守毛爽らが前後して法尚のもとを訪れて降った。陳の定州刺史の呂子廓が山洞に拠って反抗したが、法尚が兵を率いて山越えすると、呂子廓は逃走の末に部下に斬られた。590年(開皇10年)、桂州総管に転じ、嶺南安撫大使となった。

数年後に入朝し、本官のまま宿衛をつとめた。597年(開皇17年)、桂州の李光仕が挙兵して反乱を起こすと、法尚は上柱国の王世積とともに反乱を討つよう命じられた。法尚は桂州におもむいて嶺南の兵を動員し、王世積は岳州に出て嶺北の軍を召集して、両者は尹州で合流した。李光仕が迎撃してくると、法尚らは戦ってこれを撃破した。王世積の部下たちの多くが疫病に罹患して進めなくなり、衡州にとどまったので、法尚の軍が単独で反乱軍を討つこととなった。李光仕は強健な兵を率いて白石洞を守っていたが、法尚はその弟の李光略や李光度を捕らえ、大勢の捕虜を得た。降伏した反乱兵には、妻子を帰してやった。わずかな時日で降伏する者は数千人に及んだ。法尚は兵を派遣して部隊を整列させ李光仕に当たらせる一方、自らは奇兵を率いて、藪林の中に伏兵を置いた。両軍が会戦すると、法尚は反乱軍の柵の中に討ち入り、柵の中の反乱兵はみな逃げ散った。李光仕は大敗して、敗走中に斬られた。仁寿年間、遂州の獠が反抗すると、法尚は行軍総管として反乱を鎮圧した。巂州の烏蛮が反乱を起こして、州城を攻め落とすと、法尚は勅命を受けて反乱を討つこととなった。法尚の軍が巂州に到着すると、烏蛮は州城を放棄して、ばらばらに山谷の間に潜伏したため、法尚は捕捉することができなかった。そこで使者を派遣して烏蛮に説諭し、仮の官号を与え、偽って軍を返した。日に20里行って、軍を宿営させ、ひそかに人を派遣して烏蛮を偵察させた。首領たちは潜伏するのをやめて柵に帰り、集合して宴飲していた。法尚は数千人の兵を選抜して、烏蛮の柵を襲撃し、撃破して渠帥数千人を捕らえ、男女1万人あまりを捕虜にした。凱旋すると、検校潞州事となった。

604年(仁寿4年)、煬帝が即位すると、法尚は雲州刺史に転じた。3年後、定襄郡太守に転じ、位を金紫光禄大夫に進めた。607年大業3年)、煬帝が楡林に行幸すると、法尚は行宮に参朝し、内史令の元寿と北方の防衛策について議論した。煬帝の賞賛を受けて左武衛将軍に任じられた。

608年(大業4年)、黔安夷の向思多が反乱を起こし、将軍の鹿愿を殺害し、黔安郡太守の蕭造を包囲した。法尚は将軍の李景とともに分進して反乱を討ち、向思多を清江で撃破した。凱旋すると、吐谷渾に対する征戦に従軍した。法尚は別軍として松州道に進出し、逃散した吐谷渾を追捕し、青海に達した。敦煌郡太守として出向し、ほどなく会寧郡太守をつとめた。

613年(大業9年)の高句麗遠征では、法尚は水軍を率いて朝鮮道に向かった。楊玄感が反乱を起こしたため、法尚は引き返して将軍の宇文述来護児らとともに反乱軍を破った。功績により右光禄大夫の位に進んだ。ときに斉郡王薄や孟譲らが挙兵して反乱を起こし、十数万の人々を集め、長白山に立て籠もっていた。法尚はたびたび反乱軍と戦って破った。614年(大業10年)、再び高句麗遠征のために渤海湾に臨んだが、軍中で病が重篤となり、長史の崔君粛に無念の思いを遺言して死去した。享年は59。武衛大将軍の位を追贈された、は僖といった。

子女

6人の男子があった。

  • 周紹嗣(長男、霊寿県令)
  • 周紹範(次男、最も名を知られた)
  • 周紹業

脚注

  1. ^ 『隋書』高祖紀上および『北史』隋本紀上

伝記資料