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[[575年]](建徳4年)、[[武帝 (北周)|武帝]]が北斉に対する東征の軍を起こすと、李穆は兵3万の別軍を率いて、軹関を攻撃し、河北の諸県を攻略した。後に武帝が病のために軍を返すと、李穆は獲得した地を放棄して撤退した。[[577年]](建徳6年)、位は[[上柱国]]に進み、[[并州]]総管に任じられた。北斉平定の直後で、并州の世情は騒然としていたが、李穆がここに駐屯すると、落ち着きを取り戻した。[[579年]]([[大象 (北周)|大象]]元年)、并州総管のまま、大左輔に転じた。[[580年]](大象2年)、総管のまま、太傅の位を加えられた。
[[575年]](建徳4年)、[[武帝 (北周)|武帝]]が北斉に対する東征の軍を起こすと、李穆は兵3万の別軍を率いて、軹関を攻撃し、河北の諸県を攻略した。後に武帝が病のために軍を返すと、李穆は獲得した地を放棄して撤退した。[[577年]](建徳6年)、位は[[上柱国]]に進み、[[并州]]総管に任じられた。北斉平定の直後で、并州の世情は騒然としていたが、李穆がここに駐屯すると、落ち着きを取り戻した。[[579年]]([[大象 (北周)|大象]]元年)、并州総管のまま、大左輔に転じた。[[580年]](大象2年)、総管のまま、太傅の位を加えられた。


[[尉遅迥]]が[[楊堅]]の打倒を図って挙兵すると、李穆の子の李栄はこれに呼応しようと考えていた。李穆は李栄を説得して取りやめさせた。さらに李穆は使者を楊堅のもとに送って、十三環金帯を届けさせた。これは天子の服であり、楊堅を[[皇帝]]に擁立する意図をこめたものである。李穆は尉遅迥の子の[[朔州]]刺史尉遅誼を捕らえて、[[長安]]に護送させた。尉遅迥が自身の任命した行台の韓長業に[[ロ州|潞州]]を攻め落とさせ、刺史の趙威を捕らえ、城民の郭子勝を刺史に任じた。李穆は兵を派遣してこれを討ち、郭子勝を捕らえた。
[[尉遅迥]]が[[楊堅]]の打倒を図って挙兵すると、李穆の子の李栄はこれに呼応しようと考えていた。李穆は李栄を説得して取りやめさせた。さらに李穆は使者を楊堅のもとに送って、十三環金帯を届けさせた。これは天子の服であり、楊堅を[[皇帝]]に擁立する意図をこめたものである。李穆は尉遅迥の子の[[朔州]]刺史尉遅誼を捕らえて、[[長安]]に護送させた。尉遅迥が自身の任命した行台の韓長業に[[潞州]]を攻め落とさせ、刺史の趙威を捕らえ、城民の郭子勝を刺史に任じた。李穆は兵を派遣してこれを討ち、郭子勝を捕らえた。


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[[581年]]([[開皇]]元年)、隋が建国されると、李穆は[[太師]]・上柱国となった。[[586年]]([[開皇]]6年)8月戊申、邸で死去した。享年は77。使持節・冀定趙相瀛毛魏衛洛懐十州諸軍事・[[冀州]]刺史の位を追贈された。[[諡]]は明といった。

2020年9月3日 (木) 11:12時点における版

李 穆(り ぼく、510年 - 586年)は、北魏末からにかけての軍人は顕慶。本貫隴西郡成紀県

経歴

李文保の子として生まれた。若くして明敏で、度量があった。宇文泰関中に入ると、李穆は宇文泰の側近で仕えて、世話をするようになった。李穆は細心で慎み深く、怠けることがなかったため、宇文泰に気に入られて腹心とされ、寝室にも出入りするほど親しくなった。534年永熙3年)、侯莫陳悦賀抜岳を殺害すると、宇文泰は夏州からその討伐に赴いた。ときに侯莫陳悦の仲間の史帰が原州に拠っていたことから、宇文泰は侯莫陳崇を派遣して軽騎でこれを襲撃させた。李穆は先に城中にあり、兄の李賢李遠らとともに城門を占拠して侯莫陳崇を招き入れ、史帰を捕らえることに成功した。李穆は功績により都督に任じられた。北魏の孝武帝を関中に迎えるのに従い、永平県子に封じられた。537年大統3年)、宇文泰の下で東魏軍と戦い、竇泰を捕らえた戦いや、弘農を奪回した戦いで、いずれも戦功を挙げた。沙苑の戦いの勝利の後、李穆は高歓を追撃して捕らえるよう宇文泰に進言したが、宇文泰は聞き入れなかった。前後の功績を論じられ、李穆は爵位を公に進められた。

538年(大統4年)の河橋の戦いの最中、宇文泰の乗馬に流れ矢が当たって、宇文泰は落馬した。東魏の兵が宇文泰の身に迫ったが、宇文泰の側近たちは散り散りになっていた。そこで李穆は宇文泰の背中を鞭で打ち、「おまえたちの主はどこにいるか。おまえがひとりでここにとどまれ」と大声で罵った。李穆の機転によって、東魏兵たちは宇文泰が貴人であると気づかず、放置して過ぎていった。李穆は馬を宇文泰に与えて、脱出させることができた。窮地を脱した宇文泰は李穆と相対して泣き、「我が事を成せる者は、それこの人か」と側近たちにいった。李穆は武衛将軍の号を受け、大都督・車騎大将軍・儀同三司の位を加えられ、爵位を安武郡公に進め、封邑を1700戸加増された。特別に鉄券を賜り、死罪10回までは赦される特権を与えられた。驃騎大将軍・開府儀同三司侍中に進んだ。李穆は宇文泰に葦毛の馬を与えて命を助けたことから、宇文泰は厩の中の葦毛の馬を全て李穆に与えた。李穆の世子の李惇が安楽郡公に封じられ、姉一人が郡君とされ、その他の姉妹が県君とされるなど、兄弟子姪や親族姻族に厚く賞賜が与えられた。

546年(大統12年)、李穆は玉壁の戦いに従軍し、包囲が解けると、安定国中尉に任じられた。ほどなく同州刺史に任じられ、入朝して太僕卿となった。554年恭帝元年)、江陵攻撃に従軍した。ほどなく大将軍の位に進み、拓抜氏の姓を賜った。まもなく原州刺史に任じられた。後に雍州刺史に転じ、入朝して小冢宰となった。

557年、北周の孝閔帝が即位すると、李穆は封邑を3700戸加増された。さらに別封として一子を県伯とする内意があったため、李穆は兄の李賢の子の李孝軌を封じるよう申し出て、許可された。

李遠の子の李植が宇文護の殺害を図って失敗し処刑されると、李穆は甥の罪に連座して官爵を剥奪された。ときに李植の弟の李基が連座により死罪とされた。李穆はたびたび宇文護のもとを訪れ、李穆の子の李惇・李怡らを李基の代わりに死なせるよう請願した。宇文護はこれに動かされて、李基の死罪を免じた。

明帝が即位すると、李穆は驃騎大将軍・開府儀同三司・大都督の位を受け、安武郡公に封じられ、直州刺史となった。560年武成2年)、少保に任じられた。562年保定2年)、大将軍の位に進んだ。563年(保定3年)、随国公楊忠に従って北斉を攻撃した。564年(保定4年)、帰国すると、小司徒に任じられ、柱国大将軍の位を受けた。565年(保定5年)、大司空に転じた。567年天和2年)、申国公に封じられた。569年(天和4年)、北斉の独孤永業が侵攻してくると、李穆は宇文憲とともに宜陽に出兵し、崇徳などの5城を築いて、北斉軍の糧道を絶った。572年建徳元年)、太保に転じた。ほどなく原州総管として出向した。

575年(建徳4年)、武帝が北斉に対する東征の軍を起こすと、李穆は兵3万の別軍を率いて、軹関を攻撃し、河北の諸県を攻略した。後に武帝が病のために軍を返すと、李穆は獲得した地を放棄して撤退した。577年(建徳6年)、位は上柱国に進み、并州総管に任じられた。北斉平定の直後で、并州の世情は騒然としていたが、李穆がここに駐屯すると、落ち着きを取り戻した。579年大象元年)、并州総管のまま、大左輔に転じた。580年(大象2年)、総管のまま、太傅の位を加えられた。

尉遅迥楊堅の打倒を図って挙兵すると、李穆の子の李栄はこれに呼応しようと考えていた。李穆は李栄を説得して取りやめさせた。さらに李穆は使者を楊堅のもとに送って、十三環金帯を届けさせた。これは天子の服であり、楊堅を皇帝に擁立する意図をこめたものである。李穆は尉遅迥の子の朔州刺史尉遅誼を捕らえて、長安に護送させた。尉遅迥が自身の任命した行台の韓長業に潞州を攻め落とさせ、刺史の趙威を捕らえ、城民の郭子勝を刺史に任じた。李穆は兵を派遣してこれを討ち、郭子勝を捕らえた。

581年開皇元年)、隋が建国されると、李穆は太師・上柱国となった。586年開皇6年)8月戊申、邸で死去した。享年は77。使持節・冀定趙相瀛毛魏衛洛懐十州諸軍事・冀州刺史の位を追贈された。は明といった。

子女

  • 李惇(長男、字は士献)
  • 李怡(早逝、儀同、贈渭州刺史)
  • 李雅(大将軍、荊州総管)
  • 李恒(塩州刺史、陽曲県侯)
  • 李栄(合州刺史、長城県公)
  • 李直(車騎将軍、帰政県侯)
  • 李雄(柱国・驃騎将軍、密国公)
  • 李渾(十男、字は金才、郕国公)

伝記資料