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「クウン・ブカ」の版間の差分

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== 概要 ==
== 概要 ==
クウン・ブカが始めて史書に登場するのは[[1232年]]のオゴデイ・カーンによる[[第二次対金戦争|金朝征服]]の時で、当初クウン・ブカはオゴデイ自ら率いる中軍に所属して[[ロ州|潞州]]・[[鳳翔]]の攻略に参加していた<ref>『元史』巻122列伝9按札児,「帝率従弟按只吉歹・口温不花大王・皇弟四太子曁国王孛魯征潞州・鳳翔。至鈞州三峰山,金将完顔合達引兵十五万来戦、俘其同僉移剌不花等、悉誅之」</ref>。しかし西方から進軍していた[[トゥルイ]]率いる右翼軍が金軍の主力と相対するに及び、オゴデイはベルグテイ家のクウン・ブカ、[[カサル]]家の[[アルチダイ]]、[[ジャライル]]国王家のタスを援軍として派遣し、クウン・ブカらは三峰山においてトゥルイ率いる右翼軍と合流した<ref>『元史』巻119列伝6塔思,「壬辰春、睿宗与金兵相拒於汝・漢間、金歩騎二十万、帝命塔思与親王按赤台、口温不花合軍先進渡河、以為声援。至三峰山、与睿宗兵合。金兵成列、将戦、会大雪、分兵四出、塔思冒矢石先挫其鋒、諸軍継進、大敗金兵、擒移剌蒲瓦」</ref>。クウン・ブカらの援軍を迎えたトゥルイは20万人とも称される金軍の主力を[[三峰山の戦い]]において撃ち破り、モンゴル軍の勝利を決定づけた<ref>『元史』巻115列伝2睿宗,「太宗時亦渡河、遣親王口温不花等将万餘騎来会……遂奮撃於三峰山、大破之、追奔数十里、流血被道、資仗委積、金之精鋭尽於此矣」</ref>。
クウン・ブカが始めて史書に登場するのは[[1232年]]のオゴデイ・カーンによる[[第二次対金戦争|金朝征服]]の時で、当初クウン・ブカはオゴデイ自ら率いる中軍に所属して[[潞州]]・[[鳳翔]]の攻略に参加していた<ref>『元史』巻122列伝9按札児,「帝率従弟按只吉歹・口温不花大王・皇弟四太子曁国王孛魯征潞州・鳳翔。至鈞州三峰山,金将完顔合達引兵十五万来戦、俘其同僉移剌不花等、悉誅之」</ref>。しかし西方から進軍していた[[トゥルイ]]率いる右翼軍が金軍の主力と相対するに及び、オゴデイはベルグテイ家のクウン・ブカ、[[カサル]]家の[[アルチダイ]]、[[ジャライル]]国王家のタスを援軍として派遣し、クウン・ブカらは三峰山においてトゥルイ率いる右翼軍と合流した<ref>『元史』巻119列伝6塔思,「壬辰春、睿宗与金兵相拒於汝・漢間、金歩騎二十万、帝命塔思与親王按赤台、口温不花合軍先進渡河、以為声援。至三峰山、与睿宗兵合。金兵成列、将戦、会大雪、分兵四出、塔思冒矢石先挫其鋒、諸軍継進、大敗金兵、擒移剌蒲瓦」</ref>。クウン・ブカらの援軍を迎えたトゥルイは20万人とも称される金軍の主力を[[三峰山の戦い]]において撃ち破り、モンゴル軍の勝利を決定づけた<ref>『元史』巻115列伝2睿宗,「太宗時亦渡河、遣親王口温不花等将万餘騎来会……遂奮撃於三峰山、大破之、追奔数十里、流血被道、資仗委積、金之精鋭尽於此矣」</ref>。


金朝の攻略後、新たに領土を接するようになった南宋に対し、オゴデイ・カーンは自らの息子クチュを総司令とする遠征軍を派遣することを決定した。クウン・ブカもまたこの遠征軍に所属していたものの、遠征が始まって間もなクチュが急死してしまったため、クウン・ブカは[[タングート]]人の[[チャガン (タングート部)|チャガン]]とともに遠征軍を指揮しなければならなくなった。[[1235年]]には[[棗陽]]及び光化軍(現[[老河口市]])を攻略し、南宋の何太尉を捕らえるという功績を挙げた<ref>『元史』巻2本紀2,「[七年乙未]秋九月、諸王口温不花獲宋何太尉」</ref>。一時クウン・ブカがカーンの下に帰った時には、チャガンに南宋方面軍の指揮を委ねている<ref>『元史』巻120列伝7察罕,「皇子闊出・忽都禿伐宋、命察罕為斥候。又従親王口温不花南伐、歳乙未、克棗陽及光化軍。未幾、召口温不花赴行在、以全軍付察罕」</ref>。
金朝の攻略後、新たに領土を接するようになった南宋に対し、オゴデイ・カーンは自らの息子クチュを総司令とする遠征軍を派遣することを決定した。クウン・ブカもまたこの遠征軍に所属していたものの、遠征が始まって間もなクチュが急死してしまったため、クウン・ブカは[[タングート]]人の[[チャガン (タングート部)|チャガン]]とともに遠征軍を指揮しなければならなくなった。[[1235年]]には[[棗陽]]及び光化軍(現[[老河口市]])を攻略し、南宋の何太尉を捕らえるという功績を挙げた<ref>『元史』巻2本紀2,「[七年乙未]秋九月、諸王口温不花獲宋何太尉」</ref>。一時クウン・ブカがカーンの下に帰った時には、チャガンに南宋方面軍の指揮を委ねている<ref>『元史』巻120列伝7察罕,「皇子闊出・忽都禿伐宋、命察罕為斥候。又従親王口温不花南伐、歳乙未、克棗陽及光化軍。未幾、召口温不花赴行在、以全軍付察罕」</ref>。

2020年9月3日 (木) 11:12時点における版

クウン・ブカ(モンゴル語: Ku'un buqa,中国語: 口温不花,? - ?)とは、チンギス・カンの庶弟ベルグテイの息子で、モンゴル帝国の皇族。『元史』などの漢文史料では口温不花、ペルシア語史料ではکمن بوقا/Kumun būqāと記される。主にオゴデイ・カーンに仕えて金朝・南宋遠征に功績を挙げた。

概要

クウン・ブカが始めて史書に登場するのは1232年のオゴデイ・カーンによる金朝征服の時で、当初クウン・ブカはオゴデイ自ら率いる中軍に所属して潞州鳳翔の攻略に参加していた[1]。しかし西方から進軍していたトゥルイ率いる右翼軍が金軍の主力と相対するに及び、オゴデイはベルグテイ家のクウン・ブカ、カサル家のアルチダイジャライル国王家のタスを援軍として派遣し、クウン・ブカらは三峰山においてトゥルイ率いる右翼軍と合流した[2]。クウン・ブカらの援軍を迎えたトゥルイは20万人とも称される金軍の主力を三峰山の戦いにおいて撃ち破り、モンゴル軍の勝利を決定づけた[3]

金朝の攻略後、新たに領土を接するようになった南宋に対し、オゴデイ・カーンは自らの息子クチュを総司令とする遠征軍を派遣することを決定した。クウン・ブカもまたこの遠征軍に所属していたものの、遠征が始まって間もなクチュが急死してしまったため、クウン・ブカはタングート人のチャガンとともに遠征軍を指揮しなければならなくなった。1235年には棗陽及び光化軍(現老河口市)を攻略し、南宋の何太尉を捕らえるという功績を挙げた[4]。一時クウン・ブカがカーンの下に帰った時には、チャガンに南宋方面軍の指揮を委ねている[5]

1237年には再び南宋領へ南下し、クウン・ブカはチャガン及びジャライル部のタスとともに光州を攻囲した。オゴデイ・カーンは華北の史天沢ら漢人軍閥にも協力を要請したため、史天沢らは光州の外城を破り[6]、遂に光州を攻略した[7][8]。光州の攻略後、クウン・ブカはタスらとは別行動をとって更に南下し、光州の南に位置する黄州まで攻め入った[9]。クウン・ブカが黄州まで至ったところでモンゴル軍の南下を恐れた南宋との講和が成立し、クウン・ブカらモンゴル軍は帰還した[10]

『元史』の列伝には後に元朝に仕える高官となった漢人官僚の父祖がクウン・ブカの南宋遠征に参加していたことが記録されている[11][12]。1237年の南宋戦を最後にクウン・ブカは史料に登場しなくなり、その後の動向は不明である。後にクビライ・カーンと張徳輝が問答した際、張徳輝は宗室中の賢人であるクウン・ブカのような人物に兵権を任せるの良いでしょう、と語っている[13]

ベルグテイ王家

 

出典

  1. ^ 『元史』巻122列伝9按札児,「帝率従弟按只吉歹・口温不花大王・皇弟四太子曁国王孛魯征潞州・鳳翔。至鈞州三峰山,金将完顔合達引兵十五万来戦、俘其同僉移剌不花等、悉誅之」
  2. ^ 『元史』巻119列伝6塔思,「壬辰春、睿宗与金兵相拒於汝・漢間、金歩騎二十万、帝命塔思与親王按赤台、口温不花合軍先進渡河、以為声援。至三峰山、与睿宗兵合。金兵成列、将戦、会大雪、分兵四出、塔思冒矢石先挫其鋒、諸軍継進、大敗金兵、擒移剌蒲瓦」
  3. ^ 『元史』巻115列伝2睿宗,「太宗時亦渡河、遣親王口温不花等将万餘騎来会……遂奮撃於三峰山、大破之、追奔数十里、流血被道、資仗委積、金之精鋭尽於此矣」
  4. ^ 『元史』巻2本紀2,「[七年乙未]秋九月、諸王口温不花獲宋何太尉」
  5. ^ 『元史』巻120列伝7察罕,「皇子闊出・忽都禿伐宋、命察罕為斥候。又従親王口温不花南伐、歳乙未、克棗陽及光化軍。未幾、召口温不花赴行在、以全軍付察罕」
  6. ^ 『元史』巻155列伝42史天沢,「丁酉、従宗王口温不花囲光州、天沢先破其外城、攻子城、又破之」
  7. ^ 『元史』巻123列伝10苫徹抜都児,「帝嘉其能、命従皇子攻棗陽。継従宗王口温不花攻光州、一日五戦、光州下」
  8. ^ 『元史』巻120列伝7察罕,「丁酉、復与口温不花進克光州」
  9. ^ 『元史』巻119列伝6塔思,「丁酉……冬十月、復与口温不花攻光州、主将黄舜卿降。口温不花別略黄州」
  10. ^ 『元史』巻2本紀2,「[九年丁酉]是冬、口温不花等囲光州、命張柔・鞏彦暉・史天沢攻下之、遂別攻蘄州・降隨州・略地至黄州、宋懼請和、乃還」
  11. ^ 『元史』巻166列伝53蔡珍「蔡珍、彰德安陽人。父興、幼隸軍籍、従宗王口温不花出征、権管軍百戸」
  12. ^ 『元史』巻169列伝56高觿,「父守忠、国初為千戸。太宗九年、従親王口温不花攻黄州、歿於兵」
  13. ^ 『元史』巻163列伝50張徳輝『世祖又問「典兵与宰民者、為害孰甚』。対曰『軍無紀律、縦使残暴、害固非軽。若宰民者、頭会箕斂以毒天下、使祖宗之民如蹈水火、為害尤甚』。世祖黙然、曰「然則奈何」。対曰『莫若更遣族人之賢如口温不花者、使掌兵権、勲旧則如忽都虎者、使主民政、若此、則天下均受賜矣』」

参考文献

  • 杉山正明『モンゴル帝国と大元ウルス』京都大学学術出版会、2004年
  • 新元史』巻105列伝2
  • 蒙兀児史記』巻22列伝4