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子の柳調が後を嗣いだ。柳調は秘書郎を初任とし、侍御史に転じた。[[煬帝]]のとき、諸官を歴任して尚書左司郎となる。清廉なことで知られた。 |
2020年9月3日 (木) 11:11時点における版
柳 昂(りゅう こう、生没年不詳)は、中国の北周から隋にかけての政治家。字は千里。本貫は河東郡解県。
経歴
柳敏の子として生まれた。武帝のとき、内史中大夫・開府儀同三司となり、文城郡公の爵位を受けた。578年、武帝が死去すると、遺言により輔政をゆだねられた。しかし宣帝にうとまれて、本職から離された。580年、楊堅が丞相となると、柳昂は楊堅からの信頼を受けて大宗伯となった。しかし任命された日に偏風の病をえて、執務不能になった。581年、隋が建国されると、柳昂の病は快癒し、上開府の位を加えられ、潞州刺史に任ぜられた。柳昂は天下の安泰をみて、学問を奨励し礼を行うよう上表した。文帝はこれをよしとして、天下の州県ごとに博士を置いて礼を習わせた。柳昂は潞州において善政で知られた。在官のまま死去した。
子の柳調が後を嗣いだ。柳調は秘書郎を初任とし、侍御史に転じた。煬帝のとき、諸官を歴任して尚書左司郎となる。清廉なことで知られた。